奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

野迫川村 2023.3.14 / コラム

教師としてやってきた野迫川村に定住し、「caféほうぼう」の店主になるまでのこと。

文=鈴木信義(Caféほうぼう

僕が野迫川村にやってきたのは、1993年の春のこと。村立北股小学校の教員として赴任したことが始まりでした。それから約30年がたった今、僕はカフェの店主をしています。

当時36歳の初任者教員。妻、小学校1年と2年の娘たちと4人で暮らし始めました。

36歳の初任者教員が、なぜ野迫川村に?

そう思いますよねえ。そこのところを少し遡ってお話ししましょう。

 

田舎暮らしがしたくて僻地を希望

1970年代後半、僕は奈良教育大学(以下奈教大)に通っていました。将来は小学校の教員になるつもりで入学したのですが、学年が上がるうちに、学業よりも他のことが重要だと感じるようになっていきます。

3回生になる頃には、奈良市内のレコード店で毎日アルバイトをして、レコードを買ったり、コンサートに行ったり、映画や芝居を見たり、海外旅行に行ったりと、学校以外での“学び”に時間とお金をつぎ込んでいました。

このときの経験はその後の人生に大きな影響を与えることとなり、教員になるという選択肢はいつの間にか自分の中からなくなっていました。

大学卒業後は塾の講師に始まり、アルバイトをしていた楽器店での営業職、書店員などを経て、教員になる3年前には子どもの本の専門店「クレヨンハウス」に就職。それは当時僕が一番やりたかった仕事で、店長になってやりがいも感じていましたが、通勤時間が長かったことや仕事が思うようにはいかなかったこともあり、徐々にストレスがたまっていきました。

この頃すでに結婚し、子どもたちも保育所に通う年齢になっていたので、転職をするのがためらわれたのですが、どうしても続けることが難しくなって、妻に「しばらく主夫をさせてほしい」と相談を持ちかけました。でも、即座にダメ出しをされ、何かできることを探すように命じられたのです。

何か僕にできること?

考えて考えて出した結論は、敬遠していた教員になることでした。ただし、妻に条件として伝えたのは、僻地での勤務を許してほしいということ。実は、この頃から田舎暮らしに興味を持っていて、教員として僻地に赴任することで田舎暮らしができるという少しずるい考えもあったのです。

教員採用試験に向けて久しぶりに勉強をし、運良く始まった社会人からの登用制度も追い風となって一発合格。そして希望通りに、僻地の中の僻地たる野迫川村へとたどり着いたのでした。

 

学生の頃の憧れが今につながる

このような経歴と縁によって始まった野迫川村での生活は、子どもたちが高校生になって村を出るタイミングで本来なら終わるところ、奈良市との二拠点生活を通じてその後も続くことになりました。

そして、2017年に教員生活を終え、野迫川村に来てから28年が経とうとしていた2019年。主に「結の森倶楽部」というNPOの活動をしていたのですが、生活の糧としていた退職金もなくなりつつあったので、当時住んでいた村営住宅よりも家賃が安くつく空き家を探し始めました。

そのときに考えたのが、「できればカフェでもできるところがいいなあ…‥」ということでした。最初はなかなか情報もなく、無理かなあと思いながらダメ元で近所のおばちゃんに聞いてみたところ、「うちの隣が空いてるやんか。聞いてみたるわ」と言ってすぐに持ち主さん(これもお隣さん)に電話をしてくれ、即決で借りることに。しかも元々商店だったので、カフェをするにはもってこいの古民家だったのです。

2019年の初夏のことでした。

では、なぜカフェをしようと思ったのか?

僕が学生だった頃、近鉄学園前駅近くにあった「ほうぼう」という喫茶店に通っていました。店内には木が豊富に使われていて、アメリカンミュージックが流れ、淹れ立てのコーヒーやチャイ、玄米定食のランチがおいしく、定期的にライブが行われ、本のコーナーもあるという、正に僕好みのお店だったのです。

通い続けるうちに「将来自分でこんなお店がしたい」と思うようになったのは必然だった気がします。月日が流れ、野迫川で古民家を借りることができたときには、店名は「ほうぼう」に決まっていました。

 

多くの人の協力を得てオープン

さて、その古民家は長らく空き家だったために、住居としてはお風呂などの改修、カフェとしては商店部分の改修が必要でした。

DIYでするにはハードルが高かったのとできるだけ短期間にしてしまいたかったので、地元の大工さんに改修を依頼することにしました。そのための図面づくりで相談したのが、僕がやっているバンドの応援をしてくれていた高校の同級生たちでした。「野迫川ほうぼう応援隊」の誕生です。

現地に来てカフェの図面を描き、片付けも手伝ってくれました。

まず住居部分の改修をしてもらって住み始めました。カフェ部分の改修にはやや時間がかかるとのことだったので、その間はリビング部分をフローリングにしたり、キッチンの換気扇を付け替えたりと、自分でやれることをしていきました。

そして2020年の春、いよいよカフェをオープン!となるはずでしたが、年明けからコロナ禍となり、予定を延期。その間に看板やメニューボード、スプーン、フォークなどを手づくりしたり、ケーキなどを試作したりして時機を待ちました。

そしてコロナ禍が少し落ち着いた6月20日。満を持して「カフェほうぼう」はオープンを迎えたのでした。このときにも「野迫川ほうぼう応援隊」の面々が駆けつけてくれ、慣れないマスターに代わってお客さんの案内などを手伝ってくれました。

土・日・祝日だけの営業で、メニューも数種類のドリンクと手づくりのケーキだけではありますが、ほぼ毎週来てくださる常連さんができましたし、ご近所の方たちもよく来てくださいます。

県外からSNSなど見て来てくださる方や里帰りするたびに来てくださる方もいて、そんなお客さんといろんなお話ができることも楽しみになってきています。

 

「つくるとやってくる」を合言葉に

「ほうぼう」がある野川は、昔は高野豆腐づくりで栄えた地区。店の前を通る県道高野天川線は「すずかけの道」とも呼ばれ、大峯山から高野山までをつなぐ道で、戦前まで多くの修験者が行き交った祈りの道だそうです。

島嶼部(とうしょぶ)を除いて全国で最も人口の少ない村となった野迫川村にあって、野川地区は最近、少しずつですが明るい兆しが見え始めているような気がします。

柞原(ほそはら)地区では、昨年「高野豆腐伝承館」がリニューアルされ、Uターンしてこられた2組のご夫婦が新たに運営を担いつつ、商品開発等にもチャレンジされています。そのすぐ近くには、数年前からIターンしてこられた方が「雲海の宿・昭和食堂」をしておられて、テント場や畑などをつくって奮闘されています。

今井地区では、古民家をDIYで改修してコミュニティスペースを作ろうとがんばっているIターンの方がいます。また、今井地区に実家のある若い人が野迫川村を盛り上げようと、夏には夕涼み会、冬には柞原地区にある野川辨財天の除夜の鐘イベントを企画し、一緒にやろうという人も現れています。

みんな「ほうぼう」で出会った方たちです。これからこの人たちと「すずかけの道」を軸にした新たな構想を描いていこうと思っています。仮に「すずかけプロジェクト」とでも名付けましょうか。

今の野迫川村には、村外の人々が訪れる場所が少なすぎると感じています。 「それをつくれば、彼がやって来る」という声を聞いて野球場をつくったのは、若き日のケビン・コスナーが主演した「フィールド・オブ・ドリームス」という映画のお話ですが、何もない野迫川村にはそんな夢があると感じます。

「つくればやってくる」を合い言葉に、「すずかけプロジェクト」を前に進めていけるといいなあと思っている今日この頃です。

Writer|執筆者

鈴木 信義Suzuki Nobuyoshi

1958年、磯城郡川西町生まれ。1993年に教員として赴任した野迫川村にそのまま定住。教員を退職後もNPOで移住・定住促進の活動をするかたわら、2020年に古民家を改修して「caféほうぼう」をオープン。

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