奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

野迫川村 2024.2.5 / コラム

野迫川村に生かされた14年。多くの出会いと別れを経て、これからもこの土地で生きていく。

文=南祐希(有限会社津田林業)

22歳のときに野迫川村へ移住して、現在は林業の会社に勤めながら本山葵(ほんわさび)を栽培している南祐希といいます。

今年で36歳になり、妻と子ども3人と暮らしています。

これまでの14年間、野迫川村で暮らしてきたなかで、見てきたもの、感じてきたことを綴ってみたいと思います。

野迫川村と親方との出会い

出身は兵庫県加古川市で、近所には田んぼや牧場などがある田舎町で生まれました。子どもの頃から動物や自然に囲まれた環境で育ち、いつも日が暮れるまで外で遊んでいた記憶があります。

これといった趣味や目標もないまま成長し、どこの高校へ進学しようかと考えたときに、加古川市周辺は工業関係の仕事が多いということもあり、「ひとまず資格さえ持っておけば何なりと仕事はできるだろう」と考え地元の工業高校へ進学。

しかし、いざ就活の時期になると、お金のためとはいえ特段やりたい訳でもない仕事を一生続けていくのは嫌だなと感じ、改めて自分の好きなことを考えて思い浮かんだのが「動物」と「自然」でした。あくまで漠然とした目標ではありましたが、生き物に携われる仕事に就くために、神戸にある動植物の専門学校へ進学することに決めました。

当時の講師の方が国内で里山保全活動などを行なっていたこともあり、入学後は動物の生態や植生学などを学びながら、兵庫県朝来市の限界集落にある演習地にて、野生動物や植生の調査、農業、畜産、林業などについて幅広く学ぶことができました。

2年間の学生時代を経て、「仕事や生活をするなら自然が豊かな環境で」と考えるようになっていたところに先述の講師の方から声をかけていただき、そのまま就職。演習地で飼育している動物の管理や学生の指導をしながら、地域の方との連携を深める業務に携わりました。

そして就職して2年目に入る頃、もう一ヶ所演習地が増える話が持ち上がり、学生を受け入れる体制を整えるために同僚5人とやってきたのが野迫川村でした。未知の村での新たな仕事にワクワクしたことを今でも覚えています。しかし現実は甘くなく、実際はキャンプ場スタッフとしての業務や林内作業、土木作業が1日の大半を占め、イメージしていた仕事とのギャップに悩んだ同僚たちは次々と退職していってしまいました。

今の会社では続けていけないな……。加古川へ帰ってなんか適当に仕事探すかな。

半分諦めかけていましたが、「ホテルのせがわ」で開催されたクリスマス会である人と出会いました。それが、今も仕事をさせてもらっている「有限会社津田林業」の先代の親方でした。

帰っても仕事決まってないんなら、一緒に山仕事するか?

将来に不安を抱えて生活していただけに、親方のその一言にとても救われました。学生時代からお付き合いしていた彼女も学校を卒業後同じ会社に就職し野迫川村へ来ていたので、彼女と相談をして津田林業にお世話になることに決め、結婚し、夫婦で野迫川村の生活をがんばっていくことにしました。

林業は専門学生の頃から少しかじってはいたものの、初めての現場では本物の林業家の仕事っぷり、木が倒れていく迫力に圧倒されました。幸い体力には自信があるほうで、若さを生かして懸命に働くうちに日に日に仕事に慣れ、技術を習得していくことができました。

所属する様々なコミュニティ

ただ職場として村に関わるのではなく、この村で生きていくのであれば、色々な人とコミュニケーションを取りたいと思い、まずは地元の青年団へ入団。

子どもキャンプやクリスマス会などの子ども向けイベントや青年団OB・OGとの交流会などの企画、地域の祭りへの参加や奉仕活動なども行なってきました。

また、日常的にスポーツがしたいと思い10年ほど前に村で勤務していた学校の先生や青年団のメンバーと一緒にフットサルのチームをつくりました。

毎週練習をして村外での大会へ出場したり、隣村とのスポーツ交流なども行いました。現在は当時のメンバーも皆転勤でいなくなりましたが、地域の子どもたち向けに開催している月に一回のスポーツ教室は、子どたちの楽しみになっています。

「結の森倶楽部」というNPO法人にも所属しています。

野迫川村のPRや、空き家対策などの事業にも取り組んでおり、年に4回、春夏秋冬それぞれに収穫できる村の野菜や特産品などを会員向けに発送しています。他にも映画鑑賞会をしたり、ミュージシャンによるライブ、「熊野古道小辺路」を歩くイベントなども企画してきました。

「夜叉太鼓」は太鼓のグループ。現在は7人のメンバーで活動しています。

来場者が1000人を超える村一番の夏祭り「平維盛の大祭」にてオリジナル曲を披露したり、村外から依頼があれば演奏をしに行くこともあります。過去には姉妹提携都市であるスロヴァキアまで太鼓を持って行き、演奏をしたこともあるそうです。

そして大股漁業生産組合は、僕たち家族が生活している集落内にある、アマゴの養殖場を守り続けてきた地域の人たちの組合です。

関西では大規模な養殖場として知られ、採卵から3年かけてアマゴを育て、県内の河川で放流したり、野迫川村の特産品として出荷したりしています。その他にも、組合で栽培した米で地酒を作ったり、秋には村の特産品を集めた物産展を開催したりもしています。

他所の人から地域の一員へ

ここまで色々、地域との関わりについて紹介してきましたが、何より一番大事なコミュニティは、今生活をしている集落のお付き合い。

僕が生活している集落は世界遺産「熊野古道小辺路」が通っていて、昔は宿場などもあり、集落の奥にある国有林などの関係で人の出入りも多かったそうです。集落内には先述のアマゴの養殖場のほか、そうめん工場などもあり産業も盛んな地域です。そういう背景があるからなのか、よく耳にする移住者をよそ者扱いする田舎とは程遠く、最初から親しくお付き合いをしていただいた記憶があります。

地域の人たちには本当に良くしてもらって、当時から週に何度か夕飯に誘っていただいて地域のことを教えていただいたり、村の色々な話を聞かせていただきました。

そんな比較的オープンな地域であっても、やはりここで生まれ育った地元の人だけが参加するクローズな行事や取り組みもあります。人手が足りないときには声をかけてもらって参加することもありましたが、声がかからないときには参加できず、みんな忙しそうにしているのに力になれないことを心苦しく感じることもありました。

村で暮らし始めて3年ほどが経った頃、我が家に長男が産まれました。集落で10数年ぶりのベビー誕生ということもあり、地域のみなさんがすごく喜んでくれたことを覚えています。そこからはさらに地域との付き合いが濃くなり、地域の人たちに見守ってもらいながら地域で子どもを育てる、絵に書いた様な田舎暮らしが始まりました。


子どもが保育所に通っていた頃には、家に帰ってくる途中で近所の人に「夜ご飯食べていき」と誘ってもらって、子どもだけでお邪魔させてもらうことも度々ありました(笑)

そんな生活を数年続けていたある日、親方から「これからもここの集落でがんばってくれると信じて、地区の行事に関わる一員として暮らさないか」と声をかけていただきました。

そうなったからといって、生活に大きな変化が出るわけではありません。しかし、今までの「他所の人」ではなく地域の一員としての責任が生まれることをしっかりと理解、勉強させてもらうつもりで家族で快諾させてもらいました。

その翌年の正月、地区の行事にて、親方が後見人として地区の皆さんに口上を行ってもらい、地区の皆さんに村入りを認めてもらった後、盃を交わさせてもらいました。

映像作品|「野迫川のオコナイ」(製作:奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会)

見る人が見たら時代錯誤で、めんどくさいと思う人もおられるかもしれませんが、僕たち家族はがんばりを認めてもらえたような感じがして、とても嬉しかったです。この日以降、今まで参加できていなかった行事や地域で運営している養殖場の組合員として携わることも増え、地区の一員として野迫川の生活を楽しめる日々が今も続いています。

この村へ来て14年。楽しいばかりではなく、辛いことや悲しいこと、出会いや別れもたくさんあり、いつしか「離島を除いて日本一人口の少ない村」にもなってしまいました。しかし、そんな村でも他にはない魅力がたくさんあり、可能性も大いにあると考えています。

どこまで力になれるかはわかりませんが、昨年から始めたわさび作りにも励みながら、自分の子どもたちがこの村で生まれ育ったことを誇りに思えるよう、日々前向きにがんばっていきたいです。

Writer|執筆者

南 祐希Minami Yuki

加古川市出身。専門学校で生態学などを学び、卒業後に勤めた会社のスタッフとして2010年に野迫川村に移住。現在は「有限会社津田林業」に勤めながら、村の特産品である本山葵作りにも取り組んでいる。

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