奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

五條市 2023.9.22 / コラム

柿と梅と祖父と。西吉野での暮らしが当たり前じゃないと気づいた話。

写真・文=桝田 采那

今年の夏が始まる前。ちょうど梅の収穫が終わった数時間後、祖父がこの世から旅立った。

私の祖父は五條市の西吉野出身。
西吉野といえば梅と柿が有名で、特に柿は全国有数の産地として知られている。

祖父は父親を病気で亡くしてから農家として後を継ぎ、約50年ものあいだ、梅と柿の栽培を生業にしてきた。ほとんど毎日畑で仕事をしていたため、年中日焼けしており、元々彫りが深いところにその日焼けが加わるとまるで外国人のようで、アジア圏に海外旅行に行けば、現地で生活する方と間違われることもあったそうだ。

孫の私はというと、同じく西吉野町で生まれ育ち、早27年と少し。
普段は西吉野の実家で生活をしながら五條市内で働いている。

先述の通り、もともと実家は梅と柿の農家を営んでおり、柿に関してはどうやら100年以上続けているらしい。祖父母の自宅も西吉野の山の上の斜面に建てられており、周囲には梅や柿畑、森林が広がっている。

春になると自宅の周囲には林州(りんしゅう)、南高、鶯宿(おうしゅく)、白加賀(しらかが)など品種の異なる梅の花々が咲き誇り、まるで桃源郷のような景色になる。

夏は四方が緑に囲まれ、秋は向かいの山が少しずつ紅葉していく姿を横目に柿の収穫をする。

また冬になると雪が積もり、祖父母の自宅まで車で辿り着けずに歩いていくことも。そんなときも、ただ雪化粧した山々をこの場所から眺めて、澄んだ空気をめいっぱい吸い込むだけでとても気持ちよかった。

私の特等席は、幼い頃から祖父母宅の居間にある縁側だった。

バルコニーのようなその縁側から周囲の景色を見るのが好きだった。ただただ国道を流れていく車、空に浮かぶ雲、吹き上げる風。縁側に吊るされた風鈴の音色が心地よかった。

「向かいの山の桜が咲いてきたなぁ」
「紅葉が綺麗やなぁ」

そんな言葉と共に、移ろう四季を感じながら祖父母と過ごしたその場所は、ずっとそこにあるものだと思っていた。小さい頃から休みの日になると祖父母や、父母に畑に連れられ梅や柿の収穫を手伝うのが当たり前だった。

手伝いは嫌いじゃなかったけれど、特に梅雨や秋の収穫時期は遊びに連れて行ってもらえず、友達の家に行くにも送迎が必要で、忙しい親にお願いするのは毎回気が引けた。

中学校、高校、専門学校と進学するにつれて近所の友達はどんどん地元を離れていった。寂しいとか羨ましいという気持ちもあったけれど、私には一歩を踏み出す勇気やお金もなく、この場所を離れるというイメージもあまりできなかった。

それが専門学校を卒業し、働き始めて2年目。

仲の良い友人たちが一人暮らしを始めたことで、私の一人暮らしをしたい気持ちもみるみる膨らみ、一歩踏み出せなかったことが嘘のように即決断。少しずつ貯金もしていたので、自分で不動産屋さんへ行き、物件を決め、親には「ここに住むと決めたから!」と宣言して、地元から離れた場所で一人暮らしがスタートした。

その街は、駅やスーパーまで歩いていくこと、友達と夜遅くまで遊ぶことができて、地元では叶わなかったことがたくさん叶う場所だった。

ただ仕事も忙しく、自炊することがとても大変で、食事はスーパーの惣菜で済ますことが増えていった。一人で生活する楽しさよりも寂しさが勝ってきたころ、転職も重なり、1年たらずで初めての一人暮らしは終わりを迎えた。

今考えると、もちろん自炊問題や寂しさもあったけれど、当たり前のようにあった緑が近くになかったり、ご近所さんとの繋がりが薄く、誰が住んでいるのかわからなかったりという不安が、やんわり心の中にあったような気もしている。

実家に戻ると、時期時期に農作業を手伝う日々が相変わらずそこにあった。

私は勤めにも出ていたので大変だと思うこともあったけど、生まれ育った西吉野の空気、景色、そして家族やご近所さんとのコミュニケーション、その繋がりにどこか安心している自分がいた。

社会人になって、もともと好きだった写真について勉強したくなり、写真教室に通っていたのだが、そこで「写真家さんの写真を真似っこする」という課題が出たことから、私は祖父を撮り始めるようになる。

たまたまくじ引きで当たった写真家さんのことを調べていたら、たまたまおじいさんを題材にした写真集を見つけ、私も撮ってみたくなったのだ。

最初は嫌がっていた祖父も、写真を撮っていくうちに慣れてきて、少しずつノリが良くなり、カメラを向けると「もうええで」と笑いながら、決めポーズをしてくれるようになった。

祖父の家に行くときはできるだけカメラを持っていき、何気ない普段の姿も撮影するようになった。祖父と孫とはいえ、別々で暮らしていれば一定の距離感はできるもので、でも写真がきっかけで、より祖父との距離も縮まったように思う。

2023年4月下旬。春が過ぎ、柿の蕾を落とす作業の頃。突如祖父の病気が見つかった。
治療を試みるも、病気はすでに進行しており、何もできぬまま祖父は2ヶ月たらずで帰らぬ人となった。

最後の10日間。病院から自宅に戻り訪問看護や訪問診療を受けている祖父のもとには、家族・親戚・友人がほとんど毎日のように会いにきてくれて、それぞれに最後の時間を過ごした。私も毎晩仕事終わりに祖父の自宅に通い、話をしたり、祖父の食べたいものを一緒に食べたりした。祖父は亡くなる直前まで、何十年も育ててきた梅や柿の心配をしていた。

そして6月下旬。今年の梅の収穫が終わり、「今年も終わったよ」と家族から伝えられた数時間後に息を引き取った。祖父はこの生まれ育った場所で約80年、人生を全うした。

祖父が亡くなってから四十九日まで、ほぼ毎日、一人で暮らす祖母に会いに、祖父母宅へ向かった。いつもの縁側に座り、ぼーっと景色を眺めてみる。

遠くの方に見える金剛山。向かいの山の柿畑。鳥のさえずり。時々聞こえる国道を走る車の音。風が木を揺らす音。ゆっくり流れていく雲。知らず知らずにこの地に癒され、前向きな気持ちにさせてもらっていたことにふと気がつく。息をするように、当たり前に見ていた景色が自分にとってこんなにも大切だったなんて。

私の住むこの町では、年々人が少なくなり、空き家が増え、継ぐ人がいなくなった畑は次々と動物たちの住処に戻っていっている。

でも、「何もない」とよく言われるけれど、その人が気づいていないだけで、この町にはたくさんの魅力がある。そのことを、私はこの数年で改めて感じている。

当たり前なようで当たり前じゃないこの景色が、これからも続いてほしい。どうすればその願いが叶うのかはまだわからないけれど、祖父が見てきたこの景色を私も守っていきたい。そう思っている。

Writer|執筆者

桝田 采那Masuda Ayana

五條市西吉野町生まれ。看護師として病院勤務後、地域おこし協力隊(コミュニティナース)として地元にUターン。現在はインド刺繍ブランドやチョコレート専門店を運営する「イトバナシ」に勤務している。

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