奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

御所市 2019.12.6 / コラム

地元古老から聞いた葛城山の話。水にまつわる昔語りや葛城天神社、天神講について。

写真・文=栗野義典(八咫烏神社宮司 / やまとびと副編集長)

山麓の暮らしをうるおす山

葛城山は、奈良県御所市と大阪府千早赤阪村との境に位置する山である。

標高およそ960メートル。北の二上山、南の金剛山とともに「葛城山脈」ともいうべき山々のひとつだ。古くは「篠峰(しのみね)」「戒那山(かいなやま)」「鴨山(かもやま)」などとも称された霊峰である。

「葛城天神社(以下、天神社)」は葛城山の山頂に鎮座しており、鳥居のかたわらに役行者と不動明王のお堂がひとつずつ、その奥に本殿と拝殿が配置されている。

葛城天神社の社殿

この境内一帯は「天神の森」と呼ばれ、古代祭祀が行われた遺跡が出土したことから、鴨氏の祖であると伝わる「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」の神跡ともいわれ、現在の葛城山の旧名称のひとつ「鴨山」の由縁にもなっている。御祭神は「国常立命(くにのとこたちのみこと)」。農耕に使用する水の確保が大変だった山麓の村人たちが、古くから雨乞いの宮として篤く信仰してきたと伝えられている。

御所市櫛羅(くじら)にお住まいのとある古老にお話を伺った。

古老:御所の神さん(鴨都波神社 かもつばじんじゃ)はもともと櫛羅にいてはってんけども、水害で流れた。それで流れたところで神託しはったんが今の鴨都波神社だと昔語りに聞いたことがあります。また、鴨山口神社も、もとは葛城山にいてはったんが雨で流れて今の場所に移ったという人もあります。いずれにしても、この辺り一帯は鴨族がいてはったということは確かです。

鴨山口神社

古老は長年、地元自治会等の活動に従事され、特に葛城山の山頂に鎮座する「天神社」をお守りする「天神講」の役員を30年務めてこられた。

葛城山麓の物事を語る上で「水」をめぐる問題は切っても切れない。それは周辺の神社仏閣の縁起に関しても例外ではない。

そもそも「天神社」への祈願で最も重要なことは祈雨であったとされている。櫛羅集落の山際の垣内(かいと)にある「雩願(うがん)の鳥居」に村人が松明を手に集まり、皆で葛城山に登って雨乞いを行っていたそうだ。

雩願(うがん)の鳥居

古老:鴨都波神社が水害で櫛羅から今の場所へ流されたとき、水利権も持って行かれた。その水争いの名残が今の大正小学校の近くに雨地蔵という形で残っています。日照りが続いたらその雨地蔵さんの所へ20日間、雨が降るまで番にいっていたそうです。そしていよいよ黒い雲が出て雷がごろごろ鳴ったら、蓑を着て鍬を持って「降った降った」と叫んで喜ぶ。規則では、雨かさ三尺流れたら、水を廻せることになっているのですが、降っていなくても雷が鳴り出しただけで「降った降った」と大声でアピールして水を得たと聞いています。

水争いの名残を伝える雨地蔵

ちなみに櫛羅地域には「鴨山口神社は山の神を下に降ろしたものだ」とする言い伝えがあるのだという。また、「鴨山口神社」においても、少なくとも大正時代までの記録によれば「賀茂下り」といわれる神事が行われていたとされている。この行事について詳しく知る人は残念ながらもういない。

しかし、「賀茂下りとは櫛羅の水が満ちたら水を御所にまわすことだ」という伝承は今も生き続けている。いずれにせよ、「鴨都波神社」も「鴨山口神社」も、葛城山に対する信仰を背景にもった神社である。

天神社の復興と「天神講」

葛城山の山頂一帯はかつて櫛羅集落の共有地で、冬仕事の薪取りや炭焼きなどに利用されたが、境内の「天神の森」に入って木を切ってはならないとされてきた。そのため、この森だけにはブナの原生林が残されていている。

金剛山から見た葛城山

大正四年、「天神社」は「鴨山口神社」に合祀されたが、旧社地に社殿はそのまま置かれていたため、山仕事で葛城山中に入る人は必ず参っていたそうだ。

古老:昔の天神社の社殿は茅葺の立派なもんやったんですけど、それがいつの頃か御神体が盗まれまして、それでしばらく野ざらしになっていました。

その後、昭和40年代に進められた葛城山頂の観光開発事業によって、山頂にまつられていた天神社が再び注目されることになった。地元の櫛羅地区と開発会社が新しい社殿を造営し、山の守り神として「鴨山口神社」から遷座したのだ。また新社殿造営の際に麓でまつられていた不動明王像のほか、葛城山が役行者と縁が深いことから、役行者像を新たに境内にまつるようになった。

実は、明治時代まで例祭日は9月24日であったが大正の時代にはすでに合祀されていたため、山頂での祭りも中断していた。「天神講」のはじまりは昭和42年である。

古老:葛城山の観光開発を機に開発会社と協力して天神社の復興をすることになりました。「開発会社も天神社もともに栄えなあかんやないか」いうことでお祭りしようということになったんです。でも、会社はあくまでも会社。地元の神様は、やはり地元でまつらなければならない。そやから地元で講をこしらえてくださいと依頼があったわけです。突貫工事だったけれども御所市や開発会社からの援助もあって、何とか予定日に祭典を行うことができました。

「天神社」の祭りは、正月の元旦祭、5月5日の春季大祭、10月10日の秋季大祭の3つである。中でも春季大祭は、「鴨山口神社」の神職による祭典のほか、御所市茅原にある「吉祥草寺」の行者衆による護摩焚きが行われる。

当日は「天神講」役員や櫛羅の役員の他、開発会社の関係者なども参列し、拝殿で神職による祭典が朝から行われる。そして祭典に引き続き、不動明王と役行者のお堂前で法弓・法剣の儀などの後、護摩壇に火が灯され護摩木が燃やされる。

この祭典のため、「天神講」の役員は正月の農閑期から護摩木づくりを始め、3月に班長が各家に配り、各家では願い事を記しておく。5月1日に護摩壇づくりを行い、その際に各家から集めた護摩木を神社に持参し、当日を迎えるのである。

神々が坐す、奇跡の山

ところで、葛城山と言えばツツジである。もはや知らぬ人はいないほど有名な晩春の風物詩。「ひと目100万本」と称えられ、山肌を紅く染める様はまさに圧巻だ。

葛城山は、その昔「篠峰」と呼ばれていたように、山頂部は背の高い笹が生い茂っていた。それが昭和45年、笹に花が咲き、一斉に枯れた。昔から笹に花が咲くと不吉とされ凶作が来ると言われていたが、これは50〜60年周期で起こるものと言われている。この年、笹だけではなく山の笹原にも里の竹藪にも同じ現象が起こった。

これにより、葛城山においては笹の陰に隠れていた山ツツジが陽の光を受け、3年後には蕾をつけるまでに成長した。このとき、生育の妨げになるススキを刈り取る作業をしたことで、さらに3年後には山肌が紅く輝くほどにまでツツジの開花をみたのだという。

このように、葛城山のツツジがほぼ自然発生的に開花するようになったことは、あまり知られていない。このことで葛城山は一気に名を馳せ、毎年たくさんの登山客を呼ぶこととなった。

古老:ある時、葛城山頂の天神社の敷地境界線が明確でないことについて開発会社や市と話し合う機会を持ったことがありました。二度ほど会合したけれども、こんなんもう止めとこうということになった。昔から神域として仰がれてきたこのブナの原生林に線を引いて、そちらは貴方、こちらは私だなんて、ご神域の尊厳を守ってともにより良い発展をせなあかんやないか、ということで共存共栄を期することになったんです。

やはり葛城山は、神々が坐す、奇跡の山なのだ。

Writer|執筆者

栗野 義典Kurino Yoshinori

群馬県出身。『やまとびと』副編集長。「やまとびと株式会社」に勤める傍ら「伊勢街道を歩く」「大峯奥駈道を縦走する」「かつらぎ山麓紀行」などの連載を執筆。平成18年、八咫烏神社宮司を拝命。

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