奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

御所市 2023.2.27 / コラム

思えば遠くへ来たものだ。三光丸を通じて出会う越智氏と中世・御所のおもしろさ。

文=浅見潤(三光丸クスリ資料館 館長)

私の職場は、御所(ごせ)市今住にある配置薬の老舗メーカー「株式会社三光丸(以下、三光丸)」です。会社の広い敷地内には、“奈良の薬”に関する豊富な資料を収集・展示する「三光丸クスリ資料館」があり、私はそこで館長として勤務しています。

明日香村にある我が家からは主に自転車通勤ですが、不便を感じたことはなく、標高差(およそ40m)を体感し、四季の移ろいを肌で感じながら通っています。

春は桜。夏は向日葵。秋は彼岸花、たわわに実り首(こうべ)を垂れる稲穂たち。遠くに仰ぎ見る金剛山、葛城山、二上山。毎日ゆったりと、優雅な小旅行を楽しんでいます。

さて、三光丸の当主・米田(こめだ)家は、かつて中世大和国で栄えた大和武士・越智(おち)氏の流れを汲む旧家で、戦国時代末期に越智氏が滅亡した後は、武士の身分を離れて三光丸をはじめとする家伝薬の製法を守り伝えてきました。

こうした経緯があるので、館長としての私の仕事は、来館者の対応や資料の整理、古文書の解読などのほかに、越智氏を中心とする中世大和史の調査研究も含まれています。

ところで、米田家には、南北朝時代に南朝・後醍醐天皇に味方した際に一族の秘伝薬を献上したところ、帝から「三光丸」という薬名を賜ったという言い伝えがあります。館長に就任したばかりの頃、私はそのことに疑問を持っていました。「天皇に名前をつけていただいた」というのは、いわゆる権威づけではないかと。

けれども、あるとき中世史研究者の黒田智先生(現・金沢大学教授)からお手紙をいただき、大変驚きました。手紙の内容は次のようなものでした。

米田家に、何か後醍醐天皇にまつわる伝承がないでしょうか。実は私は今、後醍醐天皇と「三光思想」に関する論文を執筆中で、調べているうちに貴社が製造されている三光丸のことを知りました。

三光思想は、南北朝時代に後醍醐天皇の周辺でささやかれていたもので、天皇の権威を「三光」すなわち「太陽・月・金星」で象徴するという考えだそうです。

私はすぐに米田家のルーツは中世大和武士で、越智氏とともに南朝に味方したこと、一族の秘伝薬を献上した際、帝から「三光丸」の名を頂戴したという伝承があることなどを手紙にしたためて送りました。

やがて届いた先生からの返信には、こう記されていました。

三光丸の名を後醍醐天皇につけていただいたという話は、おそらく事実でしょう。

このとき私は、今更ながら三光丸の奥深さに驚くとともに、初めて越智一族の墓参りをしたときのことを思い出したのです。

私はもともと東京に住んでいたのですが、後述する理由で平成11年、一家そろって明日香村に移住してきました。そして、ご縁をいただいて今の職につくことができたのです。

館長として勤務するようになって間もなく、お隣の高取町に越智氏の菩提寺「光雲寺」があることを知り、さっそく訪問しました。越智氏、米田氏について調べを進めるうえで、何かヒントが得られるのではと考えたからです。

寺の境内の奥、石段を上ったところに越智氏の墓所はありました。苔むした五輪塔がいくつも立ち並び、周囲はひっそりと静まり返り、一種荘厳な雰囲気に包まれていました。

はじめまして。関東からやってまいりました、浅見と申します。三光丸に勤務しながらあなた方のことを調べています。これからよろしくお願いします。

「吉野朝忠臣 越智邦永公 越智邦澄公」と刻まれた石碑の横にある、ひときわ立派な五輪塔に向かって、心の中でそう話しかけたときでした。

よく、来たな。

どこからともなく、深みのある声が直接私の心の中に響いてきたのです。私は驚いたものの、不思議と怖さは感じません。

あれ?もしかすると、自分は越智氏に導かれて東京からやって来たんじゃなかろうか。

ふと、そんなことを思いました。そして、今まで経験してきた様々なことが、偶然ではなく、すべてがつながっているのではないかと。

たとえば、母の実家は北海道長万部町にある浄土宗寺院であること。父の先祖は武蔵七党と呼ばれた坂東武士の一員で、源氏に仕えた縁で実家は建長寺(鎌倉市)ゆかりの土地にあること。新潟直江津生まれの妻は、昔からなぜかお寺めぐりが大好きだったこと。

平成9年、中学に入ったばかりの二女を交通事故で喪ったことがきっかけで、長女が「高野山大学に行って仏教を学びたい」と言い出したこと。そして長女の高野山大学入学をきっかけに、一家で明日香村へ移住してきたこと。

移住後、職探しのかたわら、妻と一緒にお寺めぐりをしたことがきっかけとなり、『大和の隠れ寺』(朱鷺書房)という本を出版したこと。長女の縁で、妻が高野山のとある寺院で得度し、尼僧の資格を得たこと。そして、四国・西国の札所巡礼に勤しむうち、ついに先達の資格を得るに至ったこと。

ハローワークでふと目にした求人広告で、三光丸クスリ資料館の館長を募集していることを知り、ダメもとで応募したこと。そのとき、とある密教寺院のご住職に話したところ、側にあった大きなサイコロを転がして、「うーむ。アンタはもう受かっておる」と言われ、その後奇跡的に(?)採用が決まったこと。

三光丸に入社して越智氏について調査するようになったこと。そして黒田智先生からコンタクトをいただいたこと。

それからというもの、越智氏に関する調査研究は私の能力に反して、けっこう順調に進んできたような気がします。越智氏研究を通じてたくさんの方々と出会うこともでき、その都度、思いがけない情報を得ることもできました。

もしかして、後ろから越智さんが私を操っているんでしょうか。

さて、こうして越智氏について調査を進めるうち、私はその生きざまに深い感銘を受けるようになっていきました。

大和武士と呼ばれた人々は、興福寺と春日大社の軍事・警察部門として機能し、その宗教的権威を背景として大和国内に勢力を伸ばしましたが、中でも、添下郡筒井郷を本拠地とする筒井氏と、高市郡越智郷を本拠とする越智氏は大きな武力を持ち、周囲の武家を取り込んで勢力争いを繰り返していました。

室町幕府に忠誠を誓い、その権力を背景とした筒井氏に対し、越智氏は時として幕府権力にも反抗しました。南北朝時代には南大和の武士たちとともに後醍醐天皇の南朝に味方し、北朝を支持した幕府に対抗し、南朝の忠臣・楠木正成やその子孫と連携して戦いました。

弱きに味方して強きに刃向かう傾向があり、時として損な役割を担ってしまう傾向があるのです。しかも、彼らは最後までその生き方を貫き通しました。

中世大和国にあだ花のように咲き誇り、やがて戦国時代の波にのまれて消えた越智氏。

滅びゆく者に味方したくなる“判官びいき”でしょうか。
判官と言えば、越智氏は源義経にも関わりがあるとか。

義経が吉野に逃げる際、越智氏がそれを助けたという言い伝えもあるようです。さらに、あの真田信繁(幸村)が高野山の麓、九度山に蟄居していたとき、大阪の情勢を探るため、密使を遣わしたという「真田道(さなだみち)」と呼ばれた隠れ街道もあったとか……。

そう。わが町・御所は、知れば知るほどディープな場所なのです。

今日も私は、資料館の薄暗い収蔵庫にひとり籠って虫食いだらけの古文書を手に取り、越智氏がたどった栄枯盛衰の道のりに思いを馳せています。

Writer|執筆者

浅見 潤Asami Jun

1955年、北海道生まれ。明日香村在住。函館の高校を卒業後、上京。無頼の日々を経て三鷹市遺跡調査会にもぐり込み、遺跡発掘調査に手を染める。著書に『夫婦で歩く 大和の隠れ寺』(朱鷺書房)がある。

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