奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

川上村 高取町 2021.10.11 / インタビュー

川上村から高取町へ。元薬屋の古民家で写真家夫婦が織りなす、4人と1匹の家族の物語。

※本記事は高取町のWebメディア「和になる高取」(2023年に閉鎖)から転載しました

 

写真・文=赤司研介(imato)

高取町の南部、国道169号線を挟んで東西に広がる清水谷エリア。百々武(どどたけし)さんと弥薫(みくに)さんご夫妻が吉野郡川上村からこの地に移り住んだのは、2020年4月のこと。2人のお子さんと、ワンちゃんと。築60年の古民家を購入し、内装やお庭に少しずつ手を入れながら、4人と1匹家族で暮らしています。

写真が結んだ夫婦の縁

大阪で生まれ、奈良で育った武さんは写真家のお父さんの影響もあり、自身も写真家の道へと進みます。東京でレンタルスタジオのスタッフやフォトグラファーのアシスタントとして経験を積んだのち、独立。「東京ビジュアルアーツ専門学校」で講師を務めつつ、広告や会社報といった商業写真を撮影したり、日本の離島を巡って作品を撮りためたりしながら、写真家としての道を歩んでいました。

百々武『日本の離島をめぐるシリーズより』

一方の弥薫さんは三重県鈴鹿市の生まれ。高校では写真部に所属し、岡山の短大でファッションを学んだのち、「出版」に近い仕事がしたいと思い立って岐阜の広告代理店に就職。三重県の配属となり、お店や食べ物などが掲載されたフリーペーパーを制作する広告営業という仕事に奮闘します。

2005年、武さんは映画監督である河瀨直美さんの制作現場にスチールカメラマンとして参加。奈良を拠点に世界へ向けて発信する河瀨監督の姿を間近で見て、「東京でなくても、つくったものを世界に届けられるんじゃないか」という思いを強くします。さらに2009年、離島の写真を集めた写真集「島の力」を出版すると共に写真展も開催。「東京都写真美術館」をはじめ、フランス、ポルトガル、メキシコでの巡回展を行ったあと奈良に戻り、今度は「大阪ビジュアルアーツ専門学校」での講師業をベースにしながら、奈良南部の写真を撮るようになっていきます。

広告代理店で2年ほど勤めた頃、弥薫さんは体調を崩し、退職。人とコミュニケーションをとる仕事は楽しかったものの、ルールが決められた不自由な紙面、締め切りに追われて夜まで働き詰めの日々に、体が悲鳴をあげたのです。「純粋に好きなことをしよう」「もっと自由に表現したい」、そう思った弥薫さんは、この出来事を機に写真を学び直そうと決意。「ビジュアルアーツ専門学校・大阪」の門戸を叩きます。

こうして2人は、立場は違えど同じタイミングで同じ学舎に引き寄せられ、出会い、数年後に結婚。子どもを授かり、父と母になったのは2011年のことでした。

山間地の暮らしで得た気づき

真美ケ丘、広陵町での暮らしを経て、より自然な環境を求めて一家は川上村へ。県南部の写真を撮ろうと村をたびたび訪れていた武さんが、村内にある複合施設「匠の聚」のスタッフ募集の情報を耳にし、言い出したことでした。

山間部の雄大な自然、小さな村だからこその家族のような一体感、ひとつひとつ広がる確かなつながり。仕事、子育て、生き方、自分。武さんと弥薫さん、それぞれがそれぞれに葛藤しながら、山間地での暮らしの中にある、新興住宅地とは異なるおもしろみ、豊かさに、ひとつずつ気がついていきます。

武さん:自分が望んで住んだんですが、最初は村での生活に慣れるのに必死でした。コンビニもないし、お酒も飲みに行けないし。「自分は大丈夫」と思っていても、どこかに「ほんまにこれでよかったんか」って気持ちもあって。施設のスタッフとして、お客様にオムライスをつくったり、コテージを掃除したり、枯れ葉を集めたり。「なんでこんなことしてるんや」ってやっぱり思うんですけど、段々とそういうことが大事なんだとわかってくるんです。

ひとりではできないから、村の人たちと一緒にやる。出会って、話して、僕のことや家族のことを知ってもらうと、お祭りでよくしてくれたり、困ったときに助けてくれたり、気にかけていただけるようになる。きっかけのすべてがそこにあって、「自分にしかできないこと」ではなくて、「誰にでもできることかもしれないけれど、自分がそこにいて、そのことをする」というのが大事なんじゃないかと思ったんです。

水の中に石を落とすと波紋が広がって、それはまた真ん中に戻ってくる。家に帰れば、誰かが野菜を届けてくれていたり、家族みんな優しい言葉をかけてもらったり。自分たちが何かする以上に、何かしてもらって生きているってことを実感しました。

弥薫さんも、川上村での暮らしに救われたといいます。

弥薫さん:もともと自分にバツをつける性格だったんです。子どもの頃から、みんなと同じようにできなくて、みんなと同じになりたい、でもできない、からバツ。自分なりに努力するんですけど、できないんです。短大でも卒業制作が間に合わなくて、私はダメな人間だって。会社を2年で辞めたのも、そういうコンプレックスを抱えたまま就職したので、無理に頑張って病気になってしまって。

武(たけ)ちゃんに出会って結婚して、まもなくお姉ちゃんが生まれて、その2年後に息子が生まれたんですが、当時は、この子はいつまで生きられるんだろうって毎日思ってました。体も呼吸も弱々しくて。5ヶ月くらい経った頃に障がいがあることがわかって。

弥薫さん:元気に産んであげられなかったと、また自分を責めるのと同時に、何かしてあげたくて、たまたま出会った自然療法や食養生にかけました。ちょっとでも元気になるように、勉強して、教わって、3年くらいは祈るように毎日台所に立ちました。でも、それ以外の家事ができなくて、お姉ちゃんにもたくさん我慢させてしまいました。

息子を保育園に通わせることも難しくて、「来ないでください」って言われたようで、悲しい気持ちになったりして。いつ休んでもいいという理由で、靴下工場のパートの仕事についたんですけど、本当に向いてなくて(笑)。もう泣きながら保育園に迎えに行って、みたいな毎日で。

いろいろしんどくなって、武ちゃんに「もう無理かもしれん」って弱音を吐いたら、「転職したい」って言い出して(笑)。それで川上村を見に行ったら、すごく人がちっぽけに見えて、自然の方が大きくて、すごく安心したんです。だから、逃げるように、居場所を探すように、川上村に暮らし始めて。そこにはあったかいコミュニティがあって、一人ひとりの存在感があって、息子のこともそういう存在として見てくれる人ばかりで。すごく救われました。

武さんが川上村での4年間を通して制作した写真集『生々流転』

想像力が膨らむ高取町での暮らし

そんな百々家が、川上村から高取町への引越しを決めた一番の理由は、成長した息子さんを明日香村の養護学校に通わせるためでした。

武さん:明日香村でも家を探してみたんですけど、ちょうどいい物件がなくて、高取町も学校に近いことを知って調べてたら、今の家が見つかったんです。内見に来て、玄関を入った瞬間に「あ、ここやな」って思いました。蔵が2つあって、部屋数もあって、写真のプリントや機材などいろいろ荷物も置けるし、古民家なので自分たちで手を入れていくこともできるし。娘の希望の「犬が飼えるお家」という条件も満たしている、いい物件に出会えました(笑)。

高取町に来てから百々家の家族になったララちゃん。中々のおてんばなのだとか。

川上村のときのように、地域とのつながりを大事に暮らしていこう。

そう新たな出会いに期待を膨らませながら清水谷での生活がスタートした2020年。新型コロナウイルスの猛威が世界を覆います。その影響により、さまざまなつながる機会が中止に。養護学校も、入学式は行われるも以後は休校となり、自治会にも加入しましたが、行事や集会が開かれないため、地域の方々とゆっくり出会う機会が中々ありません。

武さん:散歩していたら声をかけていただいたり、副区長さんに気にかけていただいたり、お隣さんなどとの接点はあるんですが、でもまぁ、地域との交流はゆっくりかなと思っていて。来たばかりの頃は、子どものことや家のことでバタバタしていて、こちらも余裕がなかったので、少しずつ社会が落ち着いてくる中で、積極的に地域のことにも参加していきたいと思っています。

そして武さんは、ご自身が感じている高取町の魅力を次のように話します。

武さん:古い営みが残っていることだと思います。高取城まで続く土佐街道しかり、散歩しているだけで昔からのまちづくりというのが今も感じられて、楽しいです。ここ清水谷でも、うちの家は薬屋さんだったそうですし、お隣の家はもともと魚屋さんで、お向かいさんはお菓子を売ってたみたいです。地域内に散髪屋さんも酒屋さんもある。

そういうかつての息遣いみたいなものを感じながら、勝手に想像して楽しめる。過去と今のつながりを、住みながら発見していく喜びがあります。まだそれらが整理されていないおもしろさというか、それは可能性ですよね。

先の話ですが、うちもやり方によっては、お店とかをやってもいいなと思っています。写真店なのか、ブックカフェなのかわかりませんが、そういう意味での想像力が膨らむんです。ちゃんと見ていけば、余白がある。おもしろさがある。そこに可能性を感じます。

子どもたちに教わったこと。 そして、これから…

お母さんになって約10年。弥薫さんは、その間にたくさんのことを子どもたちから学んだと話します。

弥薫さん:うちの規格外の子どもたちからは、本当にいろんなことを教えてもらいました。「こうじゃなきゃいけないこと」なんてない。障がいがないことがいいとか、病気がないことがいいとか、学校に行くことがいいとか、そこに囚われると苦しくなるけれど、「そもそもそれって本当にダメなの?」って思うんです。 個性というか、持って生まれてきたものだって捉え方ができるようになったり、思い込みを手放したりできるようになってきたんです。

私自身、いろんな人に救ってもらいました。人との出会いの中で、「素敵だよ」「頑張ってるよ」って言ってもらって、それがひとつずつ自分の糧になって、少しずつ上がってこれたんです。頼っていいんだ。助けてもらっていいんだ。ひとりで頑張って生きていかなくていいんだって思えたんです。

だからこそ、私も自分がしてもらったみたいに、誰かの力になれたらうれしいし、助け合える支え合いが気持ち良くできたらいいなって思っています。

そして弥薫さんは、その思いの実現に向けて活動を始めています。

弥薫さん:出張撮影とコミュニティづくりみたいなことを始めました。障がいのある子どもがいる人を中心に、なんでも話せて助け合えるようなコミュニティをつくっていきたいと思っていて、チャレンジショップ「ワニナル」のレンタルスペースを借りてミーティングをしたり、オンラインの活用も考えたりしています。

出張撮影というのは、写真を撮るってことなんですけど、お母さんでも一人ひとり才能や可能性を持っていて、ビジネスでも、活動でもいいんですけど、主婦だけじゃないことができる何かをみんなが持っていると思っていて。そういう人たちを応援したいと思って、お話を聞いたり、プロフィール写真を撮ったり、させてもらっています。

その人が持っている内側からあふれる輝きみたいなものを写真に撮ることで、もっと自分を好きになってもらいたいし、「一歩前に進めそう」と思ってもらえたらうれしいなって思います。

「そんなことお節介かも知れないけれど…」と、弥薫さんは真っ直ぐに言葉を続けます。

弥薫さん:自分自身がすごく生きづらかった、苦しかった期間が長かったのもあるし、でも、こんな私でも、今、はちゃめちゃな家族だけど(笑)、幸せを感じられるところまでこれた。10年主婦をやって、学校に行かない子や、障がいがある子がいても、「そんな私でも好きなことができるよ」って伝えたいんです。それを励みにしてほしいし、苦しいこと、辛いこと、悲しいことがあっても、笑顔になれるお手伝いができたら、それが何よりの喜びなんです。喜んでもらえることで、私も救われるんです。

武さんにも今後について伺うと、こんな答えが返ってきました。

武さん:川上村で4年間、そこで暮らしている人たちを撮影することを通じて、村がどう成り立ってきて、彼らは何を受け継いで生きているのかを見つめ続ける経験をさせてもらいました。高取町も縁があって暮らしていくことになったので、カメラを持って、しっかりとまちを見つめて、写真集をつくりたいですね。それをきっかけに、いろんな人と知り合っていけたらいいなと思います。

決して平坦ではない人生を、心のままに進んできた武さんと弥薫さんの経験とやさしいまなざしは、これから周囲にどんな作用をもたらしていくのでしょう。

もしかしたら、自分の可能性に気が付いて活動を始めるお母さんが、次々と現れるかもしれません。もしかしたら、高取町の今が収められた写真集が、世界に向けて発売されるかもしれません。

そんな希望が、未来が、おふたりの言葉の向こうに、見えたような気がしました。

Writer|執筆者

赤司 研介Akashi Kensuke

合同会社imato代表。編集者/ライター。1981年、熊本県生まれ。神奈川県藤沢市で育ち、2012年に奈良県に移住。宇陀市在住。2児2猫1犬の父。今とつながる編集・執筆に取り組んでいる。

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