奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

下北山村 2018.2.2 / インタビュー

森に生きる仕事で地域や家族に恩返しを。下北山村に移住した家具職人・本田昭彦さんインタビュー

文=北直紀(下北山村役場)
写真提供=本田昭彦(本田木材工作所)・大越元(kii

奥大和にある下北山村は奈良県の南東部に位置し、「大和」でありながら太平洋に面した「熊野地方」を感じることのできる村です。特に食文化は熊野地方の影響を色濃く受けており、ひと昔前は、冬になると熊野灘でとれたさんまを軒先に干している風景がよく見られました。

世界遺産にも登録されている「大峯奥駈道」があり、古くより修験道の行者たちが訪れることで都や大和の文化が運ばれてきました。人々の往来の中で、やがて林業が基幹産業に成長。村の暮らしを支えてきました。

そんな緑豊かな村に18年前、本田昭彦さんは埼玉から移住してこられました。ご職業は家具職人。美しいスギ・ヒノキの針葉樹が立ち並ぶ山々に囲まれながら、本田さんは奥様と2人のお子さんと一緒に暮らしています。

今回は、本田さんへのインタビューを通して、奥大和の自然・森に囲まれた「きなりの暮らし」(きなり=生成とは、「素材のままの」「飾り気のない」という意味。下北山村のキャッチフレーズでもある)を紹介できたらと思います。

―まず作っている家具のことを教えていただけますか?

最近は、一枚板を使ったテーブルやイスを中心に作っています。一枚板というのは木を貼りつなげたりしていない板のこと。だから結構大きな木が必要なんです。そうした形や模様に特徴のある木を、お隣の三重県熊野市にある原木市場に買いに行っています。最初の頃は、足をつけたりする時に高さが揃わなくてガタガタになったりで、今思えばめちゃくちゃでしたけどね(笑)。

スギの木の一枚板のテーブル(提供:本田木工工作所)

―どうして下北山村に移住したんですか?

村出身の妻との結婚がきっかけでした。割と気楽に「自給自足」と「田舎らしい仕事」をやりたいと思っていましたね。

僕が高校生くらいの時にバブルの崩壊が起こりました。だから大学時代はいわゆる「就職氷河期」で、もともと僕自身の性格が、飲み会などの刹那的な盛り上がりがあまり好きではなかったというのもありますが、世の中自体に先行きの不安感のようなものが漂っていました。

僕の親もサラリーマンをしていて、すごく苦労をしている姿を目の当たりにしていて。そんなときに、ちょうど長野県でレタス農家のアルバイトの募集を見つけて、参加したのですが、そこでの暮らしがすごく気に入ってしまって長野県に住むようになりました。そして旅館で働き始め、そこで妻に出会ったんです。

結婚を機にこちらに来たのですが、生き方として「田舎らしい仕事」にはこだわらせてもらいました。どこの馬の骨かわからないやつが「自給自足」って、隣近所のことはすぐにわかるような田舎で、今思えば周りからどんな風に思われていたか。その点では家族には迷惑をかけたなと思います。

―「自給自足」の生活はできているんですか?

いや無理でした(笑)。やっぱり農業は手間も暇もかかるし、獣も来るし、片手間ではなかなか難しいです。特に今の仕事をするようになって、その暇がなくなったというのもありますが。

―下北山村の暮らしはいかがですか?

僕は当初はすごく虫が苦手で(笑)。今ではおかげさまで慣れましたけど、さすがにムカデやヤマビルは今でも嫌いです。でもそんなことも含めて、自然が豊かでとても良い環境だと思っています。

それこそ義母がつくる野菜はおいしいし、義父が獲る鹿肉を食べたりもします。

悪い面で言うと、やっぱり子どもの数がすごく少なくなってしまって、上の子の同級生は4人しかいなくて。なんとかそのくらいを維持しているといった感じですが、それは少し寂しいですね。

―地域になじむのは難しくなかったですか?

下北山村の人はすごく温かくて、海に近づくほど気質がまろやかになるんですかね?(笑)

奈良の中では海が近い村で、方言も東海系です。トラックで木を運んだりしていると地元の人はすごく温かい目で見てくれています。

僕の場合、地元出身の妻や義父母がいたので、地域とつながりやすかったかなと思います。最初の頃は、地域の祭りや消防団の活動なんかもできる範囲程度で参加していたのですがだんだんと人も少なくなるし、いつの間にか任されるようになって。まあでも仕事もあるので、今もできる範囲ではあるんですが。

村を代表する神社「池神社」秋の大祭の様子(提供:kii)

―村に来て、家具職人になったのはどんなきっかけだったんですか?また、今のお仕事で苦労したことってありましたか?

うちの村には大きなダムがあるのですが、ある日、ダム湖に浮かんでいたさまざまな形状の「流木」を見たときにふと「この形をそのまま活かした製品ができれば、素人の自分でもいけるんじゃないか」と思ったんです。流木は、当時、ダムの管理会社で流木掃除のアルバイトをしていたこともあって、会社の承諾を得ていただくことができました。

最初は、その流木を自宅に持ち帰り、ホームセンターにあるような工具で磨いたりして小物を作りました。クラフトフェアなんかに出品しても割と反応は良かったですね。

流木で作った椅子(提供:本田木工工作所)

やがて、流木に足をつけたりし始めました。家具第一号は、先ほども話に出た、高さを合わせるのが大変でガタガタした椅子です(笑)。そこから、だんだんと物が大きくなるにつれて機械も自分で探すようになり、つぶれてしまう製材所を紹介してもらったり、中古品で程度の良い物を探し回ったりしていましたね。中には、「これは良い!」と思って大金をはたいて買ったけど、全然使い物にならない物もあったりで、それはもう妻には迷惑をかけました(笑)。

でも、そんなことをしていると「あいつ流木で何かしているぞ」みたいな話が広まっていって、ある日、地元の人が工事なんかで伐採したスギの大径木を譲ってくれたことがありました。

その大径木を村外の製材所に持って行って加工してもらうと、今まで高級な家具店でしか見たことなかったがなかったような一枚板ができあがったんです。目から鱗というか、そこから製材所のつきあいとか、いろんな意味で世界が広がりましたね。それ以降、そういう家具を作る仕事がメインになり、なんとか家族を養えるくらいにはなりました。

コワーキングスペース「BIYORI」のカウンターと椅子も本田さんが製作(提供:kii)

―これからについては、どんな展望を描いているんですか?

うちの村も人口が減り、過疎化がどんどん進んでいます。子どもの数も少なくなってきているし、このままの状態でいけば本当に消滅してしまう。それはもしかすると、逆らえない流れなのかもしれません。

でも今、微力ながら、たくさんある村の木を使うことを通じて、人を雇えるくらいにはなってきました。これからも、少しでも多くの雇用をつくることができたらいいなぁと思っています。木を使う仕事が増えれば「山行き(今で木を伐るなどの仕事をする山林従事者のこと)」さんの仕事もできるし。

それが、今まで支えてくれた地域や家族への恩返しになるんじゃないかなと。あとは、家の目の前がスギ林になっているのですが、昔はユリの花が群生していたらしくて。スギの木を伐って整えて、山を昔の美しい景色に戻してみたいですね。

山に囲まれた本田さんの自宅。冬になると煙突から薪ストーブの煙が立ち上る。(提供:本田木工工作所)

Writer|執筆者

北 直紀Kita Naoki

1983年、下北山村生まれ。同志社大学経済学部卒。幼少期から中学卒業まで、雄大な自然の中で育つ。高校・大学に通うために奈良市内で下宿。中学校の教職員を経て、2010年から下北山村役場に勤務。

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