奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

宇陀市 2019.9.10 / コラム

宇陀で出会った御縁のお導きと柔らかな決意。

写真・文=栗野義典(八咫烏神社宮司 / やまとびと副編集長)

「二足の草鞋」への二つの御縁

僕は宇陀市にある「八咫烏神社」の宮司をしている。しかし、“宮司をしている”と言っても四六時中神社にいるわけではない。

平日は会社員、休日は神職として働いている。もっとも“神職として働いている”と言っても神社の年間行事はだいたい決まっていて、御祈祷の依頼も少ないので、休日はそのまま休日になる場合が多い。

神社界では、神社での収入が少ない神職を(しばしば自虐的に)「食わんぬし(神主)」と揶揄することがあって、ひどい駄洒落だと思う反面、しゃれにならないほど的を得ているとも思う。

本当のことを言えば、神社には常駐する神職がいたほうがいいに決まっている。だから平日に神社にいることができないことを補うため、ホームページを立ち上げたり、ブログやSNSに投稿してみたり、一個人としてできそうなことは、なるべくトライすることを心がけている。

さて、奈良県宇陀市は人口約3万人のまちである。

宇陀市というところは古代のロマンに事欠かない場所だ。何しろ『古事記』や『日本書紀』に記載されている土地の名前がそのまま残っているし、『万葉集』に由来する故地もあちこちにあるのだ。僕はとりわけ古代ロマンを追い求める人ではなかったのだけれど、いろいろと御縁が重なり、神職の免状をいただいて、だいたい10年ちょっと前から暮らしている。

そんな宇陀市のお隣、桜井市には「共栄印刷株式会社(令和元年に「やまとびと株式会社」に名称変更)」が平成10年に創刊した『やまとびと』という冊子がある。

「私たちが暮らす地域の素晴らしさを多くの人に知ってほしい」を原動力に生まれた『やまとびと』は、フリーペーパーとして出発し、現在は「本当に欲しい人に手渡しできるように」と、会員制の季刊誌として発行を続けている。

読者の方々により深く「私たちの好きな奈良」を感じてもらうため、長谷寺参道筋で「やまとびとのこころ店」というコンセプトショップを始めたり、奈良ならではのマニアックな着地型ツアーを提案する「やまとびとツアーズ」を発足させたり、はたまた時代の波にさらわれた幻の名物「女夫まんじゅう」を復刻させたりと、冊子以外にも、とにかくいろいろな取り組みを続けている。

僕は、その『やまとびと』の創刊から現在に至るまで、20数年関わらせていただいている。ここが僕の生業としての職場だ。

神社の神職になったことは、まったく御縁としかいいようがない。と同時に、その御縁のお導きは『やまとびと』の活動に触発されたものかもしれないと思っているので、そのきっかけについて少し振り返ってみたい。

僕は、実は奈良出身ではなく群馬の生まれだ。『やまとびと」に関わることになったのは、大学の就職課のおばちゃんから「奈良にフリーペーパーをつくりたいって印刷会社があるのよ」と声をかけてもらえたことに端を発する。

当時の僕は、大阪府内の芸術系大学に在籍していたにも関わらず、芸のない学生生活を送り、そのくせ「芸大生はものづくりに関わってなんぼ」という訳のわからないプライドをこじらせていたため、就職活動はすっかり暗礁に乗り上げていた。

そこに、就職課のおばちゃんからの何気ない一言。まさに渡りに船である。僕はそれに乗った。

就職カードには確か、「地域のタウン誌をゼロから立ち上げるため全員が未経験者。一緒につくり上げよう」みたいな文言が書かれていたような気がする。僕はその言葉にもしびれたのだった。

時はすでに落ち葉の季節を迎えていた。そんな時期からして、会社も「使える人材」というよりも「従順な人手」を欲していた節があり、就職はあっという間に決まった。

そして、印刷の「い」の字も、編集の「へ」の字も知らぬまま、『やまとびと』が始まったのだった。

伊勢街道が教えてくれたこと

「地域のタウン誌をゼロから立ち上げるため全員が未経験者」という触れ込みは、伊達ではなかった。あらゆる面で「完全素人」だった僕が、いきなり連載を持たされるほどに。連載のタイトルは「伊勢街道を歩く」。

草創期の『やまとびと」は、大和(奈良)の人を紹介することを基本に、奈良の伝統的なモノやコトを掲載し、観光で奈良に来る人だけでなく奈良に住む人にも親しんでもらえる紙面づくりを目指していた。

しかし、伝統的なものへのアプローチばかりになると少し高尚な印象になるので、箸休め的なものが欲しくなる。このようにして、あれよあれよと「伊勢街道を歩く」の連載が決まったのだ。

知らない人のために少し説明すると、伊勢街道とは江戸時代に大流行した「お伊勢まいり」の道中のことである。十返舎一九の代表作『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんが歩いた東海道五十三次も広義では伊勢街道なのだが、僕が歩いたのは「伊勢本街道」というルートである。

一般的には大阪の玉造稲荷神社から伊勢の内宮までの道のりと説明されることが多いのだが、『やまとびと」の創刊にあたっては伊勢の元宮(元伊勢)ともいわれる桜井市の桧原神社を出発地点としている。

「伊勢街道を歩く」は思いがけず長い連載となり、伊勢の神宮に至るころには30話に到達していた。

伊勢街道を幾度となく歩いていると、実にさまざまなモノやコトに出合う。集落から集落をつなぐ街道の景色。そこにある自然。かわらずたたずむ道標や常夜灯。古い古い神社仏閣とその祭り。路傍の祈りの痕跡。かつて数多の人々が往来したという道には、そこを歩いた人々の魂はまだまだ残されているのを感じる。

なぜ、そういったものが生き生きと感じられるのか。その要因は、街道筋に在る「今の暮らし」の形にあるのだと思う。

例えば、道標や常夜灯、回国慰霊碑やお地蔵さんなどは、人によっては「今の暮らし」にとって取るに足らないものかもしれない。しかし、街道筋の人々はそれを「不要のもの」として打ち捨てたりしないし、ほったらかしにもしない。折々に掃除を行い、花を手向ける。それが生活の一部にすらなっている。

僕はそれを美しいと思った。

気が付けば、生粋の日本人でありながら、いまだ知り尽くせぬこの日本という国の人の温もりや自然のにおいに僕は魅了されていた。そしてこの奈良は、日本の伝統や伝承の類が底なしにある場所だと気づくのだった。闇雲に求めなくても、奈良はいつも隣りにあるのだ。こんなに嬉しいことはない。

僕は伊勢街道を歩くたびに、日本人の伝統的なものに対する心の在り様を知ることに大きな意義を感じ、その担い手になることに憧れた。後に神道と深く関わる御縁をいただいた時には、自分がその器かどうか大いに疑いはしたものの、受け継ぐ気持ちに迷いはなかった。

巨木が気づかせてくれた僕なりの真実

ところで、僕には『やまとびと」を制作する上で大切にしたい想いがある。これまでずっと、その原体験を写真に収められたことを密かに誇りにし続けてきたのだが、それをここで披露したい。

これは宇陀市榛原高井にある千本杉。

井戸杉である巨木は、その名の通り、根元にある井戸に水を貯めるためのものである。井戸はすでに枯れているようだけれど、杉の巨木は益々に枝を拡げ、衰えを感じさせない。

ふと木の根元に視線をおろすと、鳥居のこちら側でひとりの老婆が祈りを捧げているが見えた。「わあ!」と思った。そしてシャッターを切った。

大いなる自然に頭を垂れること。
古いモノ(あるいはコト)を大切にすること。
一心に祈ること。

恐らく日本人として、日本に生まれ、育ったというだけで共有することのできる世界がそこにあった。

この時の感情をうまく表現する方法を、僕は知らない。
知らないけれども、なけなしの語彙力で表すとこうなる。

「日本の心がここにある」と。

僕は奈良に住んでいるから、「ここ」とは奈良である。しかし僕が帰省すれば、そのときの「ここ」は群馬となる。あなたにはあなたの、私には私の「ここ」があり、人の数や人生の数ほどに「ここ」はある。皆それぞれの「ここ」を大切にしたらいい。そうすれば、あちこちの「ここ」は美しくなる、かもしれない。

神道において、過去と未来をつなぐ「ここ」を「中今(なかいま)」と言うそうだ。全くの私見であるが、「中今」を生きる日本人(やまとびと)の真髄(こころ)とは、個人の「利」の前に、永く受け継がれてきた「理」を知り、それをおもんぱかる精神にあると「やまとびと」やそれらの活動を通じて感じた。

恐れ多いことだけれど、そんな僕なりの真実を、それとなく、やんわりとみんなに伝えていきたい。

あの千本杉での思いがけない出会いからずいぶんと時間が経った。後に結婚相手が神社の娘だったことで神職を志し、宇陀市に引越して苗字も変わったけれど、あの想いに変わりはなく現在に至っている。

Writer|執筆者

栗野 義典Kurino Yoshinori

群馬県出身。『やまとびと』副編集長。「やまとびと株式会社」に勤める傍ら「伊勢街道を歩く」「大峯奥駈道を縦走する」「かつらぎ山麓紀行」などの連載を執筆。平成18年、八咫烏神社宮司を拝命。

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