奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

宇陀市 2021.1.4 / コラム

これからの時代の希望がここに。4世代同居で私が得たもの。

写真・文=北森由季(清澄の里 粟

いやだぁ、わたし髪の毛切ってない!

出会いは、義母のそんな一言から始まった。

私が住んでいる深野という場所は、宇陀市室生と三重県名張市の県境にある。広域農道「やまなみロード」から少し外れ、名張方面へ車を走らせると急に視界がパッと開ける。眼下には名張のまちが、眼前には伊賀富士こと「尼ヶ岳」を望み、6月になると足元にたくさんのササユリが咲き誇る。

隣のおばちゃんはこう話す。

60年住んでても、ほんまええとこやなぁって毎日思うわ。

私がこの地を初めて訪れたのは、今からおよそ11年前。当時まだ付き合いだしたばかりの夫に初めてのデートで連れてきてもらったのがはじまり。見晴らしの良いカーブでタクシーを降り、案内された先には、古い日本家屋の立派な門が。

あぁ…すごいところに来てしまった…

重い引き戸を開けると、「外庭」と言われる場所に箱火鉢が置かれ、さらにその奥の引き戸の向こうに人の気配がする。緊張がピークに達したのも束の間、息子が女の子を連れて帰ってきたと察した義母がまず放った言葉が冒頭のセリフだった。それを聞いた私は「この家族なら大丈夫」と、そう思ったのを今でもはっきり覚えている。

深野という大自然に常に癒されているからか、元々の性格なのか、義父も義母も義祖母も底抜けに優しく、私のことをすぐに受け入れてくれた。すっかりこの村と彼の家族を好きになった私は、その日から毎月、彼と二人で、時には私一人でも訪れるようになった。

行く度に、義母は自分たちで育てた野菜でごちそうを作り、迎え入れてくれる。おいしい料理を囲み、和気あいあいと話す中で、私は自然と「いつかここで、この家族と暮らしたい」と思うようになっていた。

その後結婚し、娘が産まれて以来、どのタイミングで帰ろうかと二人で話すことはしょっちゅうで(夫の記事を読んで二人の認識が違っているようですが(笑))、結果、幼稚園に入るタイミングが良いのではとなり、6年前に移住した。「同居は大変だ」と誰もが言った。「凄くいい家族やから大丈夫」と言っても、「他人やし、いいのは最初だけ」と言う人もいた。

それでも私の決心が揺るがなかったのには一つ理由がある。

実は当時、私は大阪にある実家の母の介護をしていた。彼と出会う1年前、母は49歳で若年性アルツハイマー病と診断されたのだ。病の進行は早く、週に何度もリハビリに通ったが、あっという間に身の回りのことができなくなり、意思疎通がとれなくなった。そんな時にたまたま知り合いを通して出会ったのが夫だった。

彼は母のことで不安がる私に「お母さんに直接してあげられることは少ないかもしれないけど、お母さんを支えている由季のことは支えられる」と言い、母にご飯を作って食べさせてくれたり、時にはお風呂に入れてくれたり、介護に協力してくれた。いつしか彼との外出にも母は同行し、私たちの間で手を繋いで歩いていた。

私が彼の家族に初めて会った時「この家族なら大丈夫」と思ったのは、”この家族ならお母さんの病気のことも受け入れてくれる”という意味も含んでいた。そして思った通り、病気のことなど何も気にせず「ぜひ連れて来てあげて」と言ってくれた。

元気な頃から「田舎に住みたい」とよく話していた母は、深野と、特に義祖母のことが大好きになり、「おばあさんが待っている」と大騒ぎして、早朝から深野へ連れて行かされたこともあった。

少し話はそれたが、母の介護が中心の生活にも何も文句を言わずに支え続けてくれた彼や彼の家族に、私も何か恩返しがしたいという思いもあり、同居という選択が揺るがなかったのだ。

実際に一緒に暮らし始めると、毎日が賑やかで楽しく、義両親も義祖母も私や子どもたちのことをとても大切にしてくれた。子どもたちは毎日裸足でそこら中を走り回り、近所迷惑なんてお構いなしにのびのびと遊ぶ。私は毎日家族が育て収穫してくれる新鮮な野菜たちを前に、「何を作ろうか?」と献立を考えられることに感謝するようになった。

だけど3年目の夏、私は少し心のバランスを崩してしまった。

常に自分と子ども以外の誰かがそばにいて、子どもとの接し方をずっと見られているような息苦しさ、都会に住んでいた時のように自分のペースで家事ができないいらだち、子どもたちが義両親に懐いたことに対するしょうもないヤキモチ…。

毎日逃げ出したいような気持ちで、義母ともろくに話もせずに過ごす日々。どう見ても普通の様子ではなかったはず。それでも義母は何かを問うでもなく、ひたすらにいつも通り接してくれて、気分転換にと思ったのだろう、花を見に連れ出してくれたりもした。

夫にもたくさん話をしたが、そこに具体的な解決策はなく、でもただひたすら話を聞いてくれた。やがて季節が変わる頃には私の心も落ち着き、今思うとただの私のわがままで、話していたのは単なる愚痴だったのかもしれない。けれど、その夏を機に私は「恩返しをしよう」と思うのをやめた。

そもそも同居を始めて以来、助けてもらうことの方が多くて恩返しどころじゃなかったのに、それができていないことを自分で勝手にプレッシャーに感じてしまっていたのだろう。そのことに気がついてからは急に気が楽になり、今ではすっかり気を使わずに家族を頼るようになった。

義両親は本当によく子どもたちを見てくれて、色々な体験をさせてくれる。田植え・稲刈りはもちろん、日々の農作業にも子どもたちを連れ出してくれる。

春になると山菜を摘みに行き、梅雨になると梅干しを仕込む。
夏になると毎日夏野菜を採り、赤紫蘇をジュースにする。
秋になるとキウイや柚子を収穫したり、栗を剥いて渋皮煮にし、柿は吊るし柿に。
冬になるとたくあんや味噌を仕込む。

みんなそれぞれに役割があり、子どもたちもそれぞれ一役買っている。

長女は山菜を見つけるのが早くて上手。長男は体重の軽さを活かして、スルスルと枝に登ってキウイを採ってくる。次男は梅のヘタを取るのがうまい。あとはもっぱら味見の係。これが結構的を射ていることが多いから驚く。

街にいればスーパーで簡単に手に入るものを、ここではすべて自分たちで作る。

田植えから稲刈りまで、毎日のように水の量を見に行くなんて知らなかった。自然の中に食べられる草がこんなたくさんあることも、梅干しを漬けるのに三日三晩夜露に当てることも知らなかった。

紫蘇ジュースの鮮やかなピンク色の出し方、キウイを甘くする方法、大根と柿の皮を一緒に漬けるとたくあんの色が綺麗になること…。何も知らなかった私に、なんでも知っている義祖母や義母はいつも優しく教えてくれる。

「田舎=スローライフ」なんて言われているけど、そんなもの存在するのかと思うくらい、季節毎の家仕事が多く、毎日が慌ただしく過ぎていく。

そんな中でも一日一日を無駄にすることなく、みんなが家族のことを思って丁寧に暮らす。どんな時代も、こんな風なやりとりがあって今に続いているのだろう。そう思うと私もしっかり引き継ぎたい。そしてついつい「次の世代へ…」と思ってしまうけど、それは子どもたちに任せよう。

時代の流れとともに忘れられ、無くなってしまうこともあるだろうけど、幼稚園から穴だらけの靴下を履いて帰った日、すぐさま繕ってくれた大きいばあばの優しさと“物を大切にする”という精神は、子どもたちの心にきっとしっかりと残るだろう。

母がまだ病気になる前によく言っていた言葉がある。

自分の親より相手の親を大切にしなさい。

その言葉の様にできているかは分からないけど、初めて会った日、「髪を切っていない」と嘆いていた義母の髪を切るのは、今では私の仕事となっている。

Writer|執筆者

北森 由季Kitamori Yuki

1985年、大阪生まれ。4児の母。夫の実家のある宇陀市室生深野へ6年前に移住。4世代9人で暮らす。義母の影響もあり、できるだけなんでも手作りし、シンプルで安心安全な食生活を心がける。

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