奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

上北山村 2021.9.30 / コラム

流れるように移り住み、気がつけば宿の女将に。人生は何が起こるか分からない。

写真・文=小谷雅美(登山ガイド/民宿100年

流れるままに移り住んだ上北山村

今から約4年前、私は奈良県北部にある人口約12万人の生駒市から、人口約500人の上北山村へと移り住みました。

急峻な山に囲まれたこの村は、わずかにある平らに開けた土地に寄り合って集落がつくられている。

当時、夫は大阪で勤めていましたが、仕事を辞め、夫婦共に地域おこし協力隊に着任。2人の子どもたちも、慣れ親しんだ学校から同級生が1人もいない上北山村の学校へ。

こんなふうに言うと、「さぞかし一大決心をしたんでしょうね…」とよく言われますが、実際のところ、そこまで大きな決心だったという感じはありませんでした。「地域おこし」に情熱を燃やしていたわけでもなく、ただ何となく感じる縁みたいなものに惹かれて、この地にやって来たような気がします。

この村に来る少し前、私は登山ガイドの資格を取り、ガイドとしての活動を始めたばかりでした。所属する「奈良山岳ガイド協会」の会長が上北山村の方で、確か忘年会の時に「上北にある持ち家を、格安で貸そうかと思っている」という話をされていて、そこに飛びついたのが私でした。

ガイド活動の拠点に使えるのでは…と考えていたのですが、最終的には、その家を借りることはなく、なぜだか「地域おこし協力隊」になる話に発展。さらに不可解なことに、田舎暮らしに全く興味のなかった夫までもが協力隊になるという、想像もしなかった展開に話が進んでいったのでした。

半信半疑のまま地域おこし協力隊に。

山登りで奈良県南部を何度も訪れていた私は、上北山村がどんな場所にあり、集落の雰囲気がどんなものかといった表面的なことは知っていましたが、どのような人たちが住んでいるのか、どんな産業があり、どんな歴史があるのか、具体的な知識はほとんどなく、協力隊の面接を受ける前に役場の方と話をして初めて、村には子どもがあまりいないことや、人口がみるみる減っていること、産業がほとんどないことなどを知りました(後で知りましたが、夫はちゃんと調べていて、いろんなことを知っていたらしいという…)。

地域おこし協力隊の面接に2人して無事合格し、移住の話が進んでいく中、「私は本当に上北山村へ行くのだろうか?」と心の中では思いながらも、周りの人たちに移住の話をし、反対されたり応援されたりしながら、着々と手続きをし、引越しの手配をし、自分でも驚くほどスムーズに上北山村の住人となったのです。

そんな私に出された協力隊員としてのお題は、「観光資源の見直し」や「村内ツアーのガイド」というもの。 上北山村には、大台ヶ原や大峯奥駈道という観光資源がありますが、その他にも人々を惹き付ける何かを「山」を通して探すという仕事は、私にとって最高のミッションでした。

そしてまずは、「上北山村のあらゆる稜線を歩く」というところから、ミッションスタート。

地形図とにらめっこし、名もない山へ向かっては、登山道など何もない稜線をただ黙々と歩く日々。 そこには、素晴らしい景色が広がっているわけでもなく、珍しい高山植物が咲いている訳でもないのですが、自然の中に身を置いて、ひたすらに山と向き合える環境がありました。

大台ケ原ドライブウェイから見る景色。町は全く見えず、延々と続く山々しか見えないこの風景は、紀伊半島の真ん中にある上北山村ならではの風景

鹿やイノシシたちのように、身ひとつで山で暮らせる動物たちに憧れを抱く私にとって、「自分がどれだけ自然(=山)に通用するのか?」を試せる貴重な時間でした。実際のところ、「通用しないことが多い」ということがよくわかりましたが、 「○○山へ登る」とか、「季節の花を見に行く」などのいわゆる一般的な目的とは少し違う山歩きを行っていくうちに、とんでもない山奥でも、人が訪れている跡を見ることがしばしばあるということがわかってきました。

道なき道を歩くとき、山仕事のためにつけられたモノレール沿いに歩くことが多々ある。ものすごく急峻な斜面を上がったり、草が背丈まで伸びて歩きにくいこともあるが、道を見失う心配がないので安心。

山仕事の人が付けた印であったり、マニアックな登山者が付けたピークの札であったり。「こんなところにも人が来ているのだなぁ…」と、少しホッとしたり。

現在は藪になってしまっている旧道を、 地形図を頼りに歩いていると、ふいに石畳や石段が現れることもありました。

村に住む高齢の方から「昔、お嫁に来るときに、その道を歩いたよ」という話を聞いて、びっくり。

ダムに沈んでしまったり、もう少し便利なところを求めて出ていったりと理由は色々ですが、山の中には集落や作業場の跡がいくつもあります。奥山を歩いていて、こういった人々の営みの跡に出くわすと、「当時の生活は、いったいどんなものだったのだろうか?」と考えずにはいられません。

村のおばあちゃんが花嫁衣装を着て歩いた道。ダムに沈んだ東の川集落から河合集落をつなぐ「荒川古道」は、かつて郵便屋さんも通ったと言われている。今は歩く人は全くおらず、自然に戻りつつあるが、石垣は立派に残っている。

上北山村が林業で栄えていたころに大活躍した索道の跡。索道とはいわゆるロープウェイのことで、これを使って山から伐り出した木をお隣の尾鷲まで運んでいたそう。奥山を探索していると、こういった昔の人々の生活の跡を見られることがある。

昔にタイムトリップできる山歩き。 果たしてこれが、多くの人々にとって魅力的なものなのか分からないけれども、「上北山村の魅力を最大限に活かすツアーの題材は、これじゃないかなぁ…?」と、私は思っています。

民宿を引き継ぎ、女将になる。

地域おこし協力隊の任期が残り1年を切った頃、夫は上北山村に本店をおく「ゐざさ寿司本舗」への就職が決まりました。これで、協力隊卒業後も上北山村にいられる…。私たちは、この村に住み続けるための家を探し始めました。

「住む家を探しています」と、周りの人たちにアピールしていると、「ここ、使ってもろてもええよ」「あそこは、今は使ってないで」などなど、いくつか声をかけてもらい、その中に「民宿100年」と看板のかかった古家がありました。

民宿を営む前は、大工さんや猟師さんが住んでいたらしい。この建物には、脈々と続く人々の暮らしが刻まれている。

日照時間の少ない山あいの村の中では、比較的日当たりが良くて、美しい小橡川のすぐそばにあり、実は前々から気になっていた古家でした。

和室が2部屋と洗面所・トイレ・お風呂がお客様スペース。民宿で写真展をした時の写真。

平成元年にオープンした「民宿100年」は、私たちが移住してくる数年前から休業しており、ほんの少しの常連さんだけがたまに利用するだけで、ほぼ空き家となっていました。

「よかったら、このお家を貸していただけませんか? 住む家を探しています」と、所有者さんにお願いしたところ、「良いですよ!」と快諾してもらえるどころか、「もし、やる気があるなら、民宿をやってみないか?」と持ちかけてくださいました。

民宿の女将など、もちろんやったことないけど…やってみたい!

迷いなく、民宿を再開することを選び、地域おこし協力隊を卒業するときに利用できる起業支援制度を活用して、自分でも驚くほどの行動力で、グイグイと準備を進めていきました。

民宿と飲食業の営業許可を取るために、工務店さんにお願いして建物に少し手を加えた。これは屋外のスペースに屋根をつけてもらっているところ。

新型コロナウイルスの影響で、世の中が未曾有の事態に陥り、上北山村から出られない日々が続いたのをきっかけに、今まで以上に上北山村での生活に魅力を感じた私は、「もっとここでの暮らしを中心にしていきたい」と考えるようになりました。

当初、自炊スタイルの宿にするつもりだったのを一変。食事も提供できるように、飲食業の営業許可も取ることにしました。

奈良県三郷町で料理教室を営んでいる先生をお招きして、料理教室をした時のひとこま。こんな風に、村の人たちが集まって楽しいことができる場所になればいいな。

訪れる人たちに、ゆっくりと存分に、この上北山村を楽しんでもらえるように。好きなスタイルで、いろんな目的で、気軽に利用してもらえる場所にしたい。そんな思いを込めて、2020年秋、前の家主さんが大切にしてきた「民宿100年」という名前をそのまま引き継いで、再オープンしました。

民宿を開業して、一番目のお客様と記念写真。この中の一人は上北山村出身で山岳会の大先輩。民宿開業の応援もかねて、泊まりに来てくださった。

初めてなのに、どこか、なぜか懐かしい。

自然と流れるままに進んできて、この村で生活することになったけれども、心の中では、なぜか懐かしさを感じている。初めて住む場所なのに、体と心がしっくりくる。上北山村は、私にとってそんな場所です。

民宿の前の川は、適度に浅く小さな子供でも安心して遊べる。水中眼鏡で中を見ると、たくさんの魚たちが泳いでいる。

私と同じように、懐かしいとか心地よいとか、ここに居たいな・住みたいなと思う人が、のんびりできる「民宿100年」のような場所を、少しずつ増やしていきたいなと思っています。昔から居る人、新しく来た人、まだ気がついていないけど上北山村なら楽しく暮らせる人。

いろんな縁を大切にしながら、人と人をつなぐ場所をつくっていきたいと思っています。

Writer|執筆者

小谷 雅美Kotani Masami

1975年、大阪市生まれ。2017年9月より、上北山村の地域おこし協力隊となり、卒業後そのまま定住。現在、村で「民宿100年」の管理運営を行いながら、登山ガイドとして各地の山を飛び回る。

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