奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

上北山村 2023.10.18 / コラム

その暮らしの名を知りたい

写真・文=にしおかゆか

大好きな黄色の長靴を履いて水たまりに今日もダイブするのは、生まれも育ちも上北山村の3歳女子。

雨が多いことで有名な大台ヶ原のある上北山村では、たしかに雨がよく降ります。

雨と聞くとちょっとネガティブなイメージをもつ人も多いかと思いますが、子どもにとっては雨も遊び道具のひとつ。水たまりのプールで遊んだ後は、差していた傘を逆さに持って水を溜め「雨水屋さん」の始まりです。傘に溜まった雨水を手ですくって「雨いりませんかー?」と、にんまり笑顔。

自然を遊び道具に日々成長する娘を見ると、これからどんな大人になっていくのか楽しみであると同時に羨ましくも思います。というのも、私は上北山村の生まれではなく愛知県の名古屋から少しだけ離れた街で育ったからです。

隣近所の人たちとは、ある程度線引した距離感を保ち、地域の祭りやイベント事に参加してもスタッフとしては関わることはありませんでした。道端で「こんにちは!」と声をかけられたらまず不審者かどうかを疑わないといけない様な、そんなちょっと都会の街で育ったのです。

こうやって書くと「ずいぶん冷めた故郷だな」と思われるかもしれませんが、私自身はそんな故郷が嫌いだったわけではありません。夕暮れまで遊んだ公園のジャングルジムも友達と学校帰りに走って行った駄菓子屋さんも、家の二階から見えるあの山だって、とてもとても大好きで素敵な思い出なんです。

ただ、「この環境で自分の子どもを育てたいか?」という疑問は常にありました。

そんな子ども時代を経て、20歳で上京し、細々と舞台役者をしながら目まぐるしい日々を送りました。スクランブル交差点の人々の波を早足ですり抜けて、3分おきにやってくる山手線に飛び乗る日常は楽しくもありましたが、いつも何かに追われているような、立ち止まってはいけないような、不思議な暮らしでした。

満員電車に揺られていると、こんなにたくさんの人がいるのに誰とも知り合いじゃないことに違和感を覚え、それは「インターネットを使えば世界中の人と友達になれるのに住んでいるマンションの両隣の住民を知らない」という違和感と似ていました。

東京でも、故郷で思っていた「ここで子育てしたいのか?」という疑問はやはり頭の片隅にありました。東京で結婚してからは、「子育て」が今まで以上に現実味を帯び、ぼんやり田舎暮らしに興味が湧いていました。

夫も人混みが苦手で、「もし子どもを育てるなら自然の多い土地でのんびり育てたい」と言っていたので、夫婦でいろいろと調べ「地域おこし協力隊」の存在へ行き着きました。

地域おこし協力隊は、日本中たくさんの地域で募集していますが、その中から「まずはお互いの実家の真ん中らへん」に絞って検索すると奈良県の自治体が多く出てきて、私が日本史が大好きということもあり、奈良県内に絞って夫に合った募集内容がないか探した結果、「上北山村」と出会いました。

縁もゆかりもない、ひとりも知り合いのいない土地へ行くことは、とても勇気が必要でした。

田舎暮らしをする覚悟が本当にあるのか? まだ移住することに悩んでいる状態でしたが、地域おこし協力隊の採用面接案内の際に役場から「よかったら面接に奥様も一緒にいらしてください」と提案してくださり、私も夫の面接について行くことにしました。

当時、担当してくださった役場職員さんは面接後に村を案内してくださった際、上北山村での生活や子育てについての良い部分はもちろん、マイナスな部分も包み隠さずきちんと説明してくださいました。その誠実な対応に話を聞きながらぼんやりと「この人がいるなら上北山村に住もう」と決心しました。

移住してすぐの頃は、「田舎暮らしや移住生活をしたものの地域の人と馴染めずに都会にUターンする人が多い」という記事をいくつも読みました。

私たち夫婦にとって、どうしたら受け入れてもらえるかという不安は常にありましたが、まず「受け入れてもらいたいなら自分たちが上北山村の人たちを受け入れないといけない、とにかく顔を覚えてもらわないと!」と思い、最初の1年は夫婦で村の祭りやイベントにたくさん参加しました。

すると、最初は不思議そうに見ていた村の人たちも少しずつ声をかけてくれるようになりました。移住して3ヶ月ほど経った頃には、私は婦人会に入り、夫は消防団に入っていました。それ以来、村の人たちから「村に長く住む覚悟がある」と認識してもらえたのか、少しずつ受け入れてもらえた気がします。

さて、自然の多いところでのんびり子育てをしたいと思って移住してきたわけですが、実際に村に住んで最初に思ったのは、「どこがスローライフやねん!」です。田舎暮らしと聞くと、のんびりした生活を想像する人も多いかと思いますが、とにかく田舎の人たちは忙しいのです。

日々の自分たちの生活に加えて、神社やお寺の総代を務めたり、地域の祭りやイベント事、道端の草引きまで、皆が自分事として、生活の一部として取り組んでいます。50代はまだまだ若手、村の人たちはとにかく働き者です。

その暮らしを目の当たりにして「大変そうだな」とは思いましたが、「嫌だなぁ」とは思いませんでした。それは多分村の人たちがこの山奥での生活と真摯に向き合い、山や森と共に生きている姿が格好良かったからです。私も同じように、「人間としての本来の生き方」をしたいと、村の人たちの生活を見て思うようになりました。

今、上北山村に移住して7年。娘が生まれて3年が経ちました。村の人たちは娘の誕生を家族のようにとても喜んでくださいました。

近所を娘と散歩すれば「○○ちゃん!」と娘に微笑んで手を振ってくださり、それはまるで遊園地のパレードでキャラクターたちに手を振るような光景に似ていて、思わず私も笑顔になります。

村で子育てをするにあたって少し不安に思ったことは、街に比べて子どもの数が圧倒的に少ないこと。うちの娘の場合は同級生がひとりしかいません。街で暮らす友人たちにもよく「同級生が少なくて寂しいね、友達も少ないから心配だね」と言われ、私もそう思っていました。ただ娘の日々の暮らしを見ていくうちに、村での子育てが寂しいものだと思うことはなくなりました。

数で見れば確かに少ないですし、たくさんの友達がいることで学べることもたくさんあると思います。でも、それ以上にこの大自然から学べることはとてもとてもたくさんあります。

山や森、自然と暮らすことで学び鍛えられる人間力というものは、やはり自然の多い土地での暮らしではないと得られないのではないかと思います。

娘は今日も、素手で泥おにぎりを作ります。平らな石をお皿に見立てて泥おにぎりを置いて、横にはシロツメクサの花を添え「鹿さん来たら食べてもらおう」と元気に話します。

それから、ヤマガラの鳴き声をBGMに山道を散歩して、汗をかいたら透き通る川の水にじゃぶじゃぶ入って一休み。気に入った形の流木を拾って帰ってきて、玄関横にある娘の流木美術館に並べ大満足。

「あぁ今日も自然と遊んだ、自然と暮らした!」と、心地よい夜風の音を子守唄に今日も眠りにつくのです。

スヤスヤと眠る娘の寝顔が、ずっと抱いていた、「子どもを授かったら自然の多い土地でのんびりと育てたい」という願いが叶っていることを実感させてくれます。

実際に上北山村で暮らしてみると、この生活を単純に「田舎暮らし」と一括りにしてよいのか?と思うことがあります。上北山村にしかない山や自然と育ち、上北山村にしかいない人たちと笑い合い、上北山村で守り抜かれてきた伝統を次の世代へ紡いでいくその暮らしの名を何と呼べばよいのか?

移住する前は「とにかく自然の多いところ」と考え上北山村に巡り会ったけれど、今は「上北山村でなくては」と思っています。私は「田舎暮らし」ではなく「かみきた暮らし」をこれからも続けていきたい。

村には高校がなく、村の子どもたちは15歳で村を出ます。

娘が15歳になって街で暮らすようになったとき、キラキラ輝く街の夜の明るさに驚き、歩いて数分で何でも手に入る便利を覚え、人混みに惑わされ自分の足元が見えなくなっても、いつも心の片隅に上北山村での暮らしを灯せるように、故郷である「上北山村」が、娘が大人になってもあり続けるように、これからも「かみきた暮らし」を学び、微力ながら守っていきたいと思っています。

Writer|執筆者

西岡 由嘉Nishioka Yuka

愛知県出身。東京で仲間と劇団を立ち上げるなどしながら舞台役者として活動したのち、田舎での子育てに憧れて2016年に上北山村に移住。現在も上北山村に暮らしながら、夫と共に娘の子育てに奮闘している。

関連する記事