太陽が顔を出し、すっかり明るくなった午前7時。私はいよいよ、尾鷲(三重県)に向かって歩き出した。いったいどこからかというと、私が住んでいる上北山村(奈良県)からである。「途中で、無理そうだったら…帰って来よう…」と少し弱気なことを考えながら、歩みを進める。
今回、挑戦しようとしている道は「上北山村」と「尾鷲」を結ぶ古道である。
地域おこし協力隊として活動していた時期に、上北山村の山を歩く中で、次々と知ることとなった「昔の生活道」。今はダム湖に沈んでしまった集落から、お嫁に来た当時のお嬢さんが歩いた道や、かの有名な松浦武四郎(北海道を命名した松坂出身の探検家)が大台ケ原に登った時の道など、ワクワクするようなおもしろい話を耳にする中、特に興味をそそられたのが、上北山と尾鷲を結ぶ「塩の道」であった。
古道探しがおもしろく、あちこちと歩いているうちに、同じように古道を辿る人たちとつながるようになり、そこで「上北と尾鷲を結ぶ道を調べている人がいるから、一度訪ねてみてはどう?」と紹介してもらった。
すぐにアポを取り、上北山村のお隣、三重県紀北町にある「海山郷土資料館」の家崎彰氏に話を聞きに行った。家崎氏は数年に渡り、熊野灘から各地へとつながる「塩の道」を調べていて、その中のひとつが「尾鷲から上北山村」のそれであった。
家崎氏:明治末から昭和にかけて、実際に行商人が行き来しており、しかも尾鷲~上北山間を4時間ほどで歩いていたとの証言が取れています。
なななんとまぁ、4時間!? どれだけ健脚なんだ…。
家崎氏:尾鷲側は大体の道を実際に歩いてみたんですが、上北側はなんせ遠いので検証できていません。
それを聞いた私は、「では、上北側は私が検証します!」と身を乗り出して調査隊に立候補したのであった。
調査隊といっても、上北支部は私一人。調査は孤独な山行が多かったが、村の長老の話を聞いたり、実際に山に入っているうちに、少しずつ見当がついてきた。当時、歩かれていた道はダム湖によって分断され、現在は通して歩くことができないとわかり、「では今ならどこを通るか?」と、現代風にアレンジは加えたが、何とか「上北と尾鷲を結ぶ塩の道はここだ!」と言える道を見出すことができたのであった。
朝、ちゃんと起きられたら挑戦しよう
協力隊活動の集大成のひとつとも言うべき道の検証をするには、あまりにも脆弱なやる気で、前日の夜は布団に入った。
そして朝、無事にちゃんと起きられた私は、弱気なまま歩き出したのである。
一応、こま切れで全行程を歩いている。一度は歩いた道をつないで歩くだけである。ただ、通して歩くことができるだろうか? 不安であった。
お守りのつもりで、テント代わりのツエルトと寝袋代わりの防寒着をザックに忍ばせて、「いざとなったら(時間切れで暗くなったら)二日で歩けばいいか…」と自分に言い聞かせる。
尾鷲までは、ざっくり言うと、二つの大きな山を越える。
ひとつ目の峠「荒谷峠」を越えて下ったところに、大台ケ原を源流にもつ「東の川」があり、その川を越えてもうひとつの峠「木組峠」を越えると三重県である。そこからは、ずっと下りでそのまま海まで。全長約30km強の道のりである。
弱気なスタートが良くなかったのだろうか。ひとつ目の「荒谷峠」に到達した時、すでに2時間経過していた。思ったよりも時間がかかっている…。
どうしよう。先に進むか、引き返すか。でも、せっかくここまで来たしな…、と自問自答しながらも、「まぁ、ツエルトあるし、最悪はテント泊すればいいやん」と弱気な割には楽観的に、「荒谷峠」を越えて「東の川」へ下っていったのである。
自宅から「荒谷峠」までの道は、時折石畳や石組みが見られ、踏み跡も結構残っており、古道の雰囲気が漂う。そこから先、「東の川」までは現代風にアレンジしたパートである。
地図を見て、傾斜の緩い斜面を選んで、「東の川」まで下る。「東の川」を渡る時に使うつり橋に標準を合わせ、地形図を片手にコンパスと高度計を頼りに、ひたすらつり橋を目指して下る。
「東の川」が近づいて、つり橋が見えてきたころ、歩き出しから5時間半経ち、時刻は12時半となっていた。
この調子でいくと、ギリギリ紀勢線の最終電車に乗れるか乗れないか?くらいか。
今回は、自宅から尾鷲まで歩き、その後JR紀勢線に乗って実家のある大阪まで帰る予定にしていた。「山の中で無理をすれば、事故につながる」と、経験上わかっている。最後の5kmは車も走れる一般道を歩くため、そこに迎えを頼むこともできたのだが、一日でゴールできる確信がなく、「絶対に今日中にゴールしなければ」とプレッシャーがかかるに違いない…と思い、誰かに「ゴール地点で待ってて」と言えなかったのだ。
「荒谷峠で、どうしてまぁとりあえず下るか…なんて思っちゃったんだろう。バカバカバカー!」と数時間前の自分を呪いつつ、「東の川」にかかるつり橋を渡ると、林道の崩落地の工事をしている人に出くわす。「どこ行くんさ?」と聞かれて「えっと、尾鷲です」と言うと怪訝な顔をされてしまったが、「気を付けて行くんやよ」と応援してもらった。はい、がんばります…。
ここまで来たら「戻る」という選択肢は消える。だって、戻るにも峠を越えなくてはいけないのだから。頭の中では、「どこでテント張ろうかな」とか「もう、この際ゆっくり楽しむか」と、一日踏破はあきらめムードで「木組峠」を目指す。
「東の川」から「木組峠」までの古道は、谷の大崩落によって一部が消滅している。そのため、このパートも現代アレンジバージョンで、「木組峠」方面から流れ出す「木組谷」を可能な限り詰めあがり、傾斜がきつくなってきたら谷から尾根に上がり「木組峠」に向かって直登するというルートを取る。
細切れで歩いた時、「この部分は道なき道だけど、楽しいコースだな」と思っていた。谷の水はほとんど伏流水で涸れ沢となっており、大小さまざまな岩をよじ登り、まるでアスレチックのよう。直登するため、峠までの距離も短く感じたのだ。
だが実際に通しで歩いてみると、このパートが全行程の中で、一番しんどくてつらかった。「なんでこんな挑戦しちゃったんだろう」とか「私には、この道を辿るのは無理だったんだ…」という思いが頭の中をグルグル駆け巡る。思っている以上に、身体と心が疲れていた。
アスレチックのように楽しかったはずが、ひと岩越すのも一苦労。短かかったはずの峠までの道は、行っても行っても先が見えず、何かの罰ゲームみたいに長く急な斜面が続いている。
「もう、カメのほうが早いんじゃない?」という速度で、3歩進んではへたり込む。「もう、ここにテント張っちゃおう」と戦線離脱を決意しては、「いや、もう少し進もうか」を繰り返す。「弱気な自分」と「踏破したい自分」が攻防すること約3時間。ようやく「木組峠」に到着したのであった。
はぁ…ここからはほとんど下りだ。
放心気味だが、ちょっと元気が出る。峠を越えると、遠くに尾鷲の町が見えた。
昔の行商人も、帰りにこの風景見たのかな…。
時刻は午後3時半。大阪まで帰ることのできる紀勢線の最終電車は、相賀駅を午後7時20分発。
あと4時間…何とか間に合うか?! 下山口の木津集落までは13km。そこから駅まで約5km。がんばれば、何とかなりそうだ。
あきらめ気味だった1日踏破の可能性が見えてきて、がぜんやる気が出てくる。
「木組峠」からは、紀北町の登山道整備チームが地道にコツコツと整備を進めてくださっている木津道を利用する。ちゃんとテープもついているし歩きやすく、本当にありがたい。
ノロノロカメが、猟師から逃げる鹿に変身しての、駅までのタイムトライアル。
そして午後7時。タイムリミットまで20分残して、無事に相賀駅に到着。弱気に歩き出したけど、なんとか1日でゴールできた…。
ここ数年で、1番しんどくて充実した山行だったかもしれない。
しみじみと喜びがこみ上げる。自販機で発泡酒をゲットし、電車を待つ間、ひとり祝杯をあげる。
100年前、おそらく山の中の道は、今よりも良い状態だったはずである。行商人が通ったり村の人々が集落間を行き来するためには、そこを通るしかなかったからだ。石を敷いたり石垣を組み、大雨の度に、崩れる道を丁寧に直しながら大切に守ってきた道。今は「道」というよりは、山の一部に同化しようとしている「生活古道」を、約12時間かかって歩き通した。
その道を、昔の行商人は70kg近い荷物を担いで、4時間で歩いた(走った?)のである。当時の人々の健脚ぶりを身に染みて感じる1日であったと同時に、「いざとなったら車がなくてもどこへでも行けるんだなぁ…」と、変な自信がついた1日でもあった。
Writer|執筆者
1975年、大阪市生まれ。2017年9月より、上北山村の地域おこし協力隊となり、卒業後そのまま定住。現在、村で「民宿100年」の管理運営を行いながら、登山ガイドとして各地の山を飛び回る。