奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

上北山村 2022.3.10 / コラム

グリーンランドに住む「夢」よりも、上北山村での暮らしに惹かれて定住するまでのこと。

写真・文=塚原浩一(ワクワクかみきた)

夢を追う途中で出会った上北山村

若い頃、就職面接で「あなたの夢は何ですか?」という質問に、「植村直己さんのような冒険家になることです!」と意味の分からない回答をしても採用してくれた兵庫の某食品メーカーで、バブル好景気時代をまるで「リゲイン」のCMみたいに「24時間働けます!」と慌ただしく過ごしました。

でも、いつかその「夢」は本当に実現したいと考えていて、37歳の時に会社を退職し、独立独歩の道に進むことを決意。当時はインターネット環境は電話回線を使っていましたが、ADSLというブロードバンド網が普及しはじめたころ。環境が整えばデザインワークはアナログからDTP(デスクトップパブリッシング)へ移行するだろう、また写真撮影もいつかはデジタルへ移行するだろうと思い、海外でも仕事ができそうなデザイナーになろうと考えました。

ソフトウェアの使い方はまったく分からなかったので、大阪のデザイン事務所へ「給料はいらないから、デザインワークを教えてください!」と電話しまくりましたがすべて断られ、結局、親戚のデザイナーに「Illustrator(イラストレーター)」と「Photoshop(フォトショップ)」の使い方を教わり、大手印刷会社の仕事をしているデザイン会社の下請けからスタートすることになりました。

しかし、夢のために独立したはずが、仕事に追われて忙しい日々は相変わらず。あっという間に15年の歳月が過ぎてしまいました。気づけば53歳になり、もう「夢」のことも忘れかけてきていたある日、アウトドアメーカーの「mont-bell(モンベル)」が主催する「冒険塾」という講座が目に留まり、引き寄せられるように参加しました。

全6回の講座では、いろいろな冒険家の方のお話を聞くことができましたが、私は山崎哲秀さんが若い頃に植村直己さんの著書『青春を山に賭けて』に影響を受け、大学へ進学せずに海外に飛び出して、アマゾンの筏(いかだ)下り単独行や北極圏遠征を繰り返し、現在は犬ぞりを使った調査活動をされているというお話を聞いて、衝動的に「いつか山崎さんのお手伝いをさせてください!」とお願いをしていました。

そしてこの時、「60歳になったらグリーンランドのシオラパルク村に移住する」という目標を立て、具体的なアプローチの日々が始まりました。厳冬期の北海道をマウンテンバイクで走ったり、家のベランダでシュラフ(寝袋)で寝て、寒さに耐えられる体づくりに励んだり。以降、毎日ワクワクが止まりませんでした。

週末は「六甲縦走キャノンボールラン」という大会に出場するために、毎週マウンテンバイクを担いで六甲山を登りました。

その大会は「人力、マウンテンバイク、馬、ミニチュアポニー、ウィングスーツ、グライダー、スケボーなどなど、どんな方法でも、とにかく六甲縦走路を一番早くゴールした者が勝者」というルールがあって、全国からトレイルランニングなどの強者が集まってきます。

私は六甲山の縦走路を一気に往復する「POWER」という種目を完走し、次はマウンテンバイクで往復することを目標にしていました。

一方、仕事仲間のあいだでは、マンガ『弱虫ペダル』の影響でロードバイクに乗る人が増え、ちょっとしたサイクリングから淡路島1周までをこなすようになっていました。そして、次はすごく厳しいレースだと評判の「ヒルクライム大台ヶ原」に参加しようということになり、週に3日ほど六甲山頂に登って練習していると、ある日キャノンボールの強者先輩から「大台ヶ原物産店が今シーズンで閉店するらしく困っている」という話を耳にします。

「大台ヶ原物産店」は、台高山脈を縦走したランナーもお世話になる大台ヶ原の拠点です。

「自分に何かできることはないだろうか」

思い立ってインターネットで「大台ヶ原」「上北山村」について調べてみると、そこには「地域おこし協力隊の募集」の文字がありました。

この時は「地域おこし協力隊」が何かさえ知りませんでしたが、当時57歳で、グリーンランドへ移住するはずの60歳まであと3年。協力隊の任期もちょうど3年。「この3年を上北山村の役に立ててからグリーンランドへ行くのも悪くない」と思い、「上北山村地域おこし協力隊」に応募し、村に移り住んだのは2018年のことでした。

取り組んだ「物産店の復活」と「村になじむ」ということ

村にやってきてからは、希望通り「大台ヶ原物産店」の運営に携わることになりました。再オープン当初は人手不足のため食堂を営業できず、初年度は物産品の販売だけに終わりましたが、その後村内の方2名が働いてくれることになり、2019年の4月に食堂も再開することができました。

しかし、気掛かりなこともありました。それは、オープンから冬季通行止め(大台ヶ原ドライブウェイは毎年11月下旬から4月下旬で通行止め)までの約7ヶ月間、村から大台ヶ原山上までの30kmを車で往復する日々が続いたため、地域の方との交流がほとんどできなかったことです。

これでは、移住した意味が半分しかない!

そもそも、私がグリーンランドのシオラパルク村に移住したいと思ったのは、実は電気やガソリンなどの新しいエネルギーや文明によって、犬ぞりを使った生活など固有の文化が急速に失われ、村の存続さえ危ういと聞いたからなのです。

上北山村の助けになれなかったら、グリーンランドの村を助けることなんてできません。

そこで、大台ヶ原ドライブウェイの冬季通行止め期間は、村の行事や地域活動をできる限りお手伝いして、村の方と話ができる場に顔を出すようにしました。村の人口は500人弱。日々お会いする人はみな顔見知りで、まるで「ひょっこりひょうたん島」とか「男はつらいよ」のシーンに迷い込んだような雰囲気でした。

そして暮らしていくうちに、だんだんと村のことがわかってきます。

子どもたちは、地域に高等学校がないために、中学校を卒業したら村外の学校に入って寮生活を送ることになる。そうして大学に進学、就職、結婚して村に戻ってこない人が多い。故郷に戻りたくても仕事がないから、戻れない人も多いと聞きます。これでは、ただでさえ子どもが少ないのに、これからも人口がどんどん減ってしまう。

たった3年の間に上北山村で何ができるだろう?

そんな想いに駆られながらも、かつての北山郷(上北山村・下北山村・北山村)を盛り上げようと活動するグループに参加してイベントを企画したり、「こまどりケーブル」で放映する協力隊制作番組「ぐっと!奥大和」のグループに参加して村のことを発信したり、マウンテンバイクのコースをつくってトレイルツアーの企画を考えたりしました。

いつしか「夢」は代わっていた

しばらくの間、「辺境の村は、どこも子どもが少なくなって、みんな歳をとって、いつか村も人も元気がなくなってしまう」というイメージが拭えずにいたのですが、転機が訪れます。

北山郷を盛り上げる「北山3村フェスタ」というイベントの開催をきっかけに、お隣の下北山村で、年配の方々が取り組む「不動峠地蔵堂・修復プロジェクト」に参加したときのこと。

その会議で村の将来や、「昔の人が大切にしてきたものが朽ちていくのを放っておけない」と一生懸命に話し合って、募金活動をされる姿を見て、胸がアツくなりました。

そして地蔵堂修復資金の一部をクラウドファンディングで調達するため、皆んなの思いをプロジェクトに込めたところ、たくさんの方々に応援してただき、目標だった50万円が集まりました。本当に感無量でした。

そうこうする間に、あっという間に協力隊の任期は終わりましたが、私は今も上北山村にいて、グリーンランドへは行っていません。

任期を終えてからは、山仕事や製材の作業、畑作業をお手伝いしたりで収入は安定しませんが、村の先輩たちと一緒に働いて、昔話とかを聞いて、「ワハハ!」と笑ったりしていると、この場所に昔から暮らしてるような心地いい気持ちになります。

朝、家の外に出て、空を見上げて、とんびが飛んでいるのをのんびり眺めたり。
夜、温泉から帰って来て、車を降りた時に空を見上げて満天の星空に感動したり。

あるときから「いつまでも、こんな平和が続いたらいいのに」と思っている自分に気づきます。

昨年から、山崎哲秀さんのグリーンランドでの活動を応援するため、微力ながらカレンダーを購入したり、村の皆さんに協力を募ったりしています。

いつしか、私の「夢」は、「グリーンランドに住むこと」から「上北山村とシオラパルクの子どもたちを繋ぐこと」に代わっていました。人口が40人ほどの地球最北の小さな村にも子どもたちが元気に暮らしていることを知ったら、上北山村の子どもたちはどんな反応をするだろう。

来年にはこの「夢」を実現できるようがんばります!

Writer|執筆者

塚原 浩一Tsukahara Koichi

1960年、兵庫県生まれ。食品メーカー勤務後、37歳のときにデザイナーへ転身。2018年に地域おこし協力隊として上北山村に移り住み、2022年から「ワクワクかみきた」としてキッチンカーを始める。

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