奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

吉野町 2020.3.26 / コラム

世界の無限を聴く

写真・文=片山文恵KAM INN

吉野に来て、音をよく聴くようになったし、よく聴くことができるようになった。
今回はそんなお話しを少し。

吉野山に住み始めて4年。お山の信仰・修験道(しゅげんどう)とその山々に囲まれ、宿の女将をしながら、自然の時間に身をゆだねて暮らしている。

そのゆるやかな生活の中で気が付いたことがある。
『言語以外の情報』、それはものすごく膨大で、深いということだ。

現代人の求めるもの、もしくは失ったものは、まちがいなくこの部分だと日々確信を深めている。

ヒトと言語

吉野山は、スーパーも、コンビニも、ドラッグストアもない、いわゆる不便なところだ。都会から観光に来た方に「観光地だと思っていたんですけど、思っていたより何もないんですね」と言われることもある。

『何もない』

わたしは、山にはありとあらゆるものがあると思う。
ただ、その情報は言語化されていないだけ。

ヒトは言葉で思考する生き物らしい。
言葉を聞き、言葉で分類し、言葉で分析する。

つまり、日本語で話す者は日本語の回路で思考し、英語で話す者は英語の回路で思考する。だから使う言語が変わると、思考回路も変わる。その違いが、その言語を使う人々の性格や文化を形成するのだろう。

わたしは日常生活で英語を使うことが比較的多いのだが、英語で話しているときと日本語で話しているときでは性格が変わる。これが日本語の思考と英語の思考によるものなのだと実感する。

言葉に頼った思考と理解。それが、ヒトがヒトたる所以でもあると思うが、これが修験道でいうところの『わたしたちが野生動物からヒトになった時点で失ったもの』のヒントではないかと思った。

世の中は“音”で溢れている。
そのことに気がついたのは、吉野に住んでしばらく経ってからのことだ。

もちろん、さまざまなものが音を発しているのは知っていた。しかし知っているだけで、ほとんど聴けていなかったのだということを、吉野に来てから体感した。

わたしの宿のすぐ近くに『金峯山寺(きんぷせんじ)』という修験道の総本山がある。

ここでは、毎朝6時半から『朝座勤行(あさざごんぎょう)』という、いわゆる“朝のお勤め”をするのだが、吉野に住んですぐ、やることもなかったわたしは毎朝『金峯山寺』の朝座勤行に通った。

朝一で寺まで歩き、姿勢を正し、行者たちの唱えるお経、太鼓の音、法螺貝の音、それらの音を全身に浴びる。そうしていると、なぜだか身体と心が整うのだ。毎日いろんな人と顔を合わせる宿泊業の仕事をするわたしにとって、『朝座勤行』は自分をリセットする手段としてちょうど良かった。

そうして2年が経った頃、わたしは得度をして『金峯山寺』の行者となった。それ以降は自分自身の修行として、毎朝6時半から勤行をしている。

365日、暑い日も寒い日も、晴れの日も雨の日も、欠かさず毎日同じことをする。ともすればルーチンワークのような“生産性のない行為”のように見える勤行の中で、わたしは『音』に対する気づきを得た。

勤行を始めた頃は、噛まないように集中してお経を読み、間違えないように作法をし、落ち着いてよく通る声を出そうと意識して姿勢を正し、腹式呼吸をしてと、ただただ一生懸命だった。毎朝40分、その静かな集中の時間が終わると身体と心が活性化したような感覚で、参列していたころとは違う心地良さがあった。

そんな勤行も毎日しているとすっかり慣れ、お経も作法も身に沁みつき、いつの間にか声も良くなる。何も考えずとも体が勝手に動いて勝手に勤行が始まり、終わる。新鮮味も、一生懸命する必要もない。

するとどうだろう、落ち着くどころか集中できなくなった。

ねむい、
余計なことを考えてしまう、
意図が見い出せない、
だるい、
何も整わない…。

あれだけ好きだった勤行が日に日に嫌いになっていった。その危機を救ったのが音だった。

“聴く”の分析

『自分の声を聴く』という事象について考えてみてほしい。

音は耳で聴く、つまり鼓膜の振動で聴くと思いがちではないだろうか。それは私たちが“言葉”を耳で聴いているからだ。

では、『骨伝導』というものをご存知だろうか。

わたしたちが声を発したとき、その振動は空気振動として伝わるだけでなく、身体自体にも伝わっている。その身体を伝わるのが『骨伝導』だ(自分の声を録音すると普段の自分の声と違って聞こえるのは、この『骨伝導』の音が欠落しているからである)。

わたしの勤行危機を救ったのは、この『骨伝導』の音だった。

ある日、『骨伝導の声もきちんと聴いてみよう』と、自分の読経する声だけに意識を集中してみた。

それまで意識したことがなかったが、間違いなく聴こえているはずの音。気が付いていない音。耳から聴こえる自分の声を意識の向こうに持っていき、その他の音に集中した。

意外なことに、その音は案外すんなりと認識することができた。
そして『あっ、これか』と思った瞬間、そこにとても透き通った世界が拡がった。

耳で聴く私の声と、身体で聴く私の声が内部で混ざり合う。
それは何というか、とても“美しい”体験だった。

美しいものを感じ取ったとき、静かに体の奥から多幸感が湧き出てきて、無駄な力が抜ける。聴覚は集中しているが、身体はどんどん脱力する。しかし背筋はスッと伸び、自然な腹式呼吸をし、目はゆるやかにお経本の文字を追っている。

そのうち、徐々に聴覚器官が鋭敏になり、自分の声や太鼓の音の向こう側にある、遠い山の音もよく聞こえるようになる。音がどんどん増える。勤行の音がどんどん大きくなる。

『はぁぁ!なんて心地よい…!』

勤行が終わって、口を閉じ、鳴り物を止め、五体投地をする。お堂の中が静かになり、聴こえるのは山の小さな音だけ。驚くほど身体と心が安らかになっているのを感じる。集中できなかったときは長い長い40分だったのが、そのときはあっという間だった。これが私にとって初めての『音を聴く』という現象を体感した瞬間だった。

音はどこで聴いているか

聴覚というものは、他の特別な物質を必要としない。
伝播してくる振動を感知するのが『聴く』ということだ。

つまり音という物質は存在しない。
当たり前のことだが、改めて考えるとなんだか不思議だ。

わたしたちは生きていく中で知らず知らずに、いろんなものをシャットアウトしているのだろう。先の『音の体験』をしてからは、街の中の人工の音がとても単調で強烈だということがわかった。同じフレーズをずっとリピートし続ける壊れたCDプレーヤーに似ている。

洗脳のようなその音に、どうしても感覚を閉じずにはいられない。
『あぁ、こうして人は感覚を閉じるのだな』と思った。

以前、東北地方のマタギと対談させてもらったとき、「音は肌で聴くものだ」という言葉をいただいた。また、生物の世界ではカエルは皮膚全体を鼓膜のように使っているといわれている。それこそ彼らは本当に肌で音を聴いているのだ。

このような情報を鑑みると私たちは一般的に、身体のそれぞれの器官が、

目:視覚 耳:聴覚 鼻:嗅覚 口:味覚 肌:触覚

の役割を担っていると思いがちだが、人間がそう思っているだけで実はそうとも限らないのだと思う。なぜなら、単細胞生物たちも学習能力を持っていることは証明されているのだもの(この話は長くなるので省く)。

自然はものすごい情報量を持ち、発信し続けている。

『音を聴く』ということが少し紐解けたあのときだけでも、パーンと意識と身体から無駄なものが排除され、フィルターのかかっていないオリジナルの情報が受け取れるようになった。これからも修行をしてゆく中でこのような気づきが度々訪れるのだろう。それが今のわたしの楽しみだ。

都会に住むみなさんも、ときには吉野のような雄大な自然の中に身を置き、自然の中の膨大な感覚情報に浸ってみてはいかがだろうか。そこには言語化できない心と身体の変化が待っています。世界の無限が目の前に押し寄せる瞬間を、楽しみにおいでください。

Writer|執筆者

片山 文恵Katayama Fumie

岡山生まれの元理系女子。2017年に吉野町に移住。ゲストハウスの女将であり、金峯山寺の行者。原始的な信仰、修験の生きる地で文化と信仰を継承し、現代語で伝える者として、講演やツアーなどを企画する。

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