奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

吉野町 2024.3.15 / コラム

よしのが初めて吉野へ。19歳で吉野山の桜を見て始まった、人生の話。

文=小久保よしの(編集者・ライター)

「吉野よしの」になりたくない!

「おまえ、吉野と結婚したら、名前が『吉野よしの』になるじゃん!」

小学生の頃、クラスの男子からそう言われ、何度もからかわれた言葉だ。クラスには、顔が整っていてスポーツができ、おまけに性格もいい、モテ男子の吉野くんがいたのだ。私はそうやって男子たちにからかわれるのが、とてもいやだった。からかわれるたび、吉野くんのことを好きな女子がキッと私に冷たい視線を送ることもいやで、ヒヤヒヤしていた。

私はどうしてこんな名前なんだろう。「吉野よしの」になってからかわれたくないから、絶対に吉野くんを好きにならない——。そう決めて彼とは距離を保って過ごしていた。今では笑い話だけど、私の小学生時代には、名前にまつわるそんな思い出がある。

私の名前、ひらがなで「よしの」は、本名である。国文学や日本史の好きな父が、吉野山の文化や歴史が好きでつけた、と聞いている。父からは「桜で有名な、吉野という山があるんだよ」と聞かされて育った。

ちなみに妹の名前は、ひらがなで「しずか」。吉野山で源義経と別れた歴史で知られる、静御前からとったものだ。私が母のお腹の中にいて、まだ性別も分からない頃から、父は「子どもの名前は、よしのとしずか!」と、決めていたらしい。男の子が生まれたらどうするつもりだったのだろう。

 

人生初のひとり旅で、奈良・吉野山へ

吉野が奈良県にあるのだと知ったのは、少しあとのことだ。19歳になったばかりの春、ある日思い立った。

「吉野へ行ってみよう!」

当時、父と母は不仲で、若い私はそれをしんどく感じていた。家でいつも暗い表情をしている母を見るのもつらいし、おまけに家族のことを初めて人に打ち明けて支えてもらっていた恋人と別れてしまった時期でもあった。荒々しい気持ちの毎日で、「えい!」と、人生初のひとり旅をする気になったのだ。

当時はもちろん、スマホがない時代(PHSは持っていた)。私は旅行ガイドブック『るるぶ奈良』をめくって、宿の素泊まりの予約だけ取り、地元の埼玉から吉野山へ向かったのだった。

近鉄吉野駅に到着し、「よしの」とひらがなで大きく書かれた駅名標を見たとき、「ほんとうにあったんだ」と不思議な気持ちになった。観桜期のため、人でごった返す駅周辺。「これだけの人が吉野に桜を見にきたのか」と、ちょっと嬉しくなる。

観桜期に近鉄吉野駅から吉野山を登るには、徒歩、ロープウェイ、臨時バスという3通りがある。でも私はそんなことは知らず、人の流れにのって近鉄吉野駅から徒歩数分のところにある千本口駅に着き、ロープウェイに乗りこんだ。

これは日本最古のロープウェイで、3分ほどで吉野山の山上まで着くらしい。ちなみに、桜の時期は駐車場の確保がむずかしいので車で行くのはおすすめしない。

 

初めて見る広大な桜景色に圧倒される

レトロな車体がぐーんと山を登り始めると、眼下に美しい桜景色が広がった。小さな車内に、観光客の「わぁ!」という歓声が響く。同時に視界が薄桃色で満たされていく。私は初めて見る広大な桜景色に圧倒されて、静かに感動し、身震いしたのだった。

吉野山の桜は、約8キロメートルにおよぶ尾根に約3万本が植えられているといわれ、山肌に広がっている。標高の低い地域から順に「下千本」「中千本」「上千本」「奥千本」と呼ばれ、約1カ月かけて豪華絢爛に咲き誇るのだ。つまり標高差によって、満開のところとそうでないところがある。

安易に「すべてが満開」なのかと思っていた私は、駅でもらった地図を改めて見て「そういうことだったのか」と知った。でも、つぼみも咲き始めも、満開も咲き終わりも、どの桜も美しいと思えた。

植えられているのは、白や淡いピンクの花を咲かせる品種のシロヤマザクラが中心だ。実は、ソメイヨシノは吉野山には少ししか植えられていない。ソメイヨシノは江戸の染井町にある植木屋が作り出した品種で、「吉野の桜のように美しい桜」という意味で名付けられたと言われる。

 

名前の縁と、桜景色で心がほぐれた私の決意

私の心を打ったものがもう一つ、世界遺産・𠮷水神社にあった。この境内からは、一目で千本見えるほど多くの桜が一望できるところを指す言葉、「一目千本(ひとめせんぼん)」の名の通り、中千本と上千本の山桜を一望することができる。それはもう、絶景だった。

でも特に印象的だったのは、𠮷水神社の書院内に残っていた「潜居の間」だ。1185(文治元)年、兄である源頼朝の追手から逃れた源義経と静御前が、弁慶らと共にここへ隠れ住んでいたという。彼らの遺品などを見て、子どもの頃に読んだ日本史漫画の、「兄弟仲良く助け合いたかった……」と義経が自害するシーンを思い出した。

私は家族のことを思わずにいられなかった。特に、妹だ。当時妹は家族全員に心を閉ざし、口も聞かない状態だったから。「私、帰ったら、妹と、話そう」。源頼朝・義経兄弟と自分たち姉妹を重ねるなんてと思う人がいるかもしれないけれど、名前の縁と、桜景色で心がほぐれたせいか、私は初めてそう思えたのだった。

𠮷水神社で、1594(文禄三)年に豊臣秀吉が吉野山で盛大な花見の宴をしたことも知った。その際、𠮷水神社に数日間滞在したらしい。それが、それまでは梅を愛でていた日本での初めての「花見」と言われているようだった。

吉野の桜って、多くの人に愛されてきて、私はそんな土地の名前をもらったんだなぁ。

この地に降り立ってからずっと感じていた嬉しさが、誇らしさにもなっていく——。家族だの、進路だの、恋愛だので悩む19歳には、それがいちばんの吉野土産になったのだった。

 

あの旅の18年後、奈良県へ移住することに

旅を終えて、一念発起した私は、大学に通う傍ら編集スクールにも通い始め、デザインのできる妹や友人を誘ってフリーペーパーを立ち上げた。毎月みんなで話し合い、取材し、毎回1万部を発行し、全国のカフェなどで配布するすべてが、楽しくて仕方なかった。

約6年間の制作活動で妹は相棒のようなメンバーで、なんでも話し合い、笑い合う関係に戻れた、と思っている。この活動のおかげで、私は大学卒業から一年強で、フリーランス編集者としてスタートをきることもできた。

そして、あの旅の18年後の2017年。まさかまさか、自分が奈良へ移住することになるとは、当時の私に教えてあげたい。奈良の地に血縁も地縁もない私の背中を最終的に押したのは、やはり名前の縁だった。しかも移住直後、あの旅の直前にお別れした元・恋人と再会し、2018年には彼も奈良へ移住してくれて、結婚した。人生とは、想像だにしなかった出来事で彩られていくのである。

吉野山には季節を問わず、たびたび訪れている。もうすぐまた桜の季節がやってくる。いつか、妹と吉野山へ行ってみたいものだ。

Writer|執筆者

小久保よしのKokubo Yoshino

ディレクター・編集者・ライター。埼玉県所沢市出身。編集プロダクションでの勤務を経て、2003年よりフリーランス。ローカルやソーシャル分野の取材やライティング、ブランディングの仕事を行っている。

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