奥大和ライフジャーナルOkuyamato Life Journal

高取町 2018.9.27 / コラム

母親になり、失ったものと得たもの。そして「たかまち」が立ち上がるまでのこと。

写真・文=福西奈々子(たかまち*高取町ママたちのちから*)

母親は「子育て」「家事」「仕事」をがんばっている人。そんな価値観が今では当たり前になりつつあるように思いますが、それは実に過酷な持久走でもあります。

かくいう私も、子どもの育児と家事、仕事に追われる生活に体が悲鳴をあげて、なくなく仕事を諦めたという経験があります。

そんな出来事を経て「たかまち*高取町ママたちのちから*」は生まれました(「たかまち」がどんな団体かは第1話をお読みください)。第2話の今回は、「たかまち」誕生の背景と歴史を、私自身の変遷と合わせてお伝えしたいと思います。

特に子どもが生まれて環境がガラリと変わり不安なママさんに読んでもらえたら嬉しいです。

結婚を機に移住した、高取町。

2005年の秋、私たち家族は高取町に住まいを移しました。高取町を選んだのは、「夫と私の実家を結んだ中間地点」という、とてもざっくりとした理由から。

夫と私と、それぞれの車があり、近隣には銀行、郵便局、スーパー、薬局など生活に必要なインフラも揃っています。最寄りの「壺阪山駅」には特急列車も停車し、「あべのハルカス」がある「大阪阿倍野橋駅」まで乗り換えなしで1時間弱。車に乗れば、市街化の進む橿原市へ10分ほどで行くことができます。最高のベッドタウンだと私たち夫婦は感じていました。

引越しをした当時、私は大阪の上本町で働いていました。任される仕事も多かったですし、上司や後輩との関係も良く、公私ともに充実した毎日。独身生活にピリオドを打ち、不自由ない幸せな暮らしがスタートしたのだと感じていました。

第一子を授かったのは、2009年の秋のことでした。

臨月まで電車に乗って仕事に行き、産後は町内で開催される離乳食教室や歯科検診、ベビーマッサージなどに積極的に参加しました。

「どうせ、1歳になればバリバリ働くことになるんだから」

当時の私はそんな風に考え、積極的に同じ境遇のママさんたちとつながることをしませんでした。

産休と育休期間は両親を頼るばかり。夫が休みのときは子どもをベビーカーに乗せて散歩に出かけ、夫が仕事の日は実家で過ごすというような生活でした。

1年が経ったころ、仕事復帰に向け保育施設への手続きを済ませ、娘が1歳を迎えると同時に仕事場へ復帰を果たしました。

しかし、子育てと仕事の両立は、想像をはるかに超えて大変だったのです。

往復3時間の通勤時間。保育園の送迎も物理的に難しく、ほとんどは実家の親頼み。時短勤務を終え、そそくさと帰宅し、車に乗り込んでお迎えに。しっかり断乳できなかったこともあり、保育園の駐車場で授乳して帰ることもありました。

帰宅すると、子どもに夕飯を食べさせて、一緒にお風呂に入り、寝かしつける。その後は、夫婦の夕食タイムで、片づけと同時に翌日の夕飯づくり。家事を終わらせて就寝するころには日付が変わっていました。そして翌朝は5時起き、という毎日。

子どもは容赦なく病気をもらってきました。高熱が続き、1週間、毎日点滴をすることもありました。気を張って、一生懸命家事や育児をしているのに、子どもの病気や風邪をもらってしまう。仕事復帰早々、有給もほぼ使い果たしてしまいました。

そんな時でした。上司が私の肩をポンと叩いて、こう言ったのです。

「お試し期間だと思ってやってくれたらいいからさ!」

純粋に励ましてくれたのだと思います。でも、当時の私にとっては、「もうここでは活躍できない」と思わされるに十分な言葉でした。

それでも毎日のルーティンは変わりません。落ち込む暇もありませんでした。毎日がただただ過ぎて行きました。

そして、仕事復帰して、2ヶ月後のこと。子どもからもらった風邪が悪化して肺炎を起こし、これまた子どもからもらった胃腸炎を加えて、ダブルパンチで入院することになったのです。

子どもを放って入院する。

家事育児を夫に押し付ける。

会社の評価が下がる。

罪悪感と恐怖に押し潰されそうでした。

そんな私を見かねてか、「何よりも身体を大事にしてほしい」という夫からの希望もあり、私は仕事を辞める決断をしました。

「辞める、逃げることもひとつの方法だ」

「あなたの代わりはたくさんいる。子どもの母親はあなたしかいない」

「あなたならどんな世界でも活躍できる」

いろんな方からのいろんな言葉に励まされました。でも、私が負った傷は消えませんでした。

「子どもを産んだ女性は、もう二度と一線で活躍できない」

この言葉がしばらくのあいだ、呪縛のように、心に居座るようになりました。

180度ガラリとかわった世界で生きること。

仕事を辞めたことで自宅で少しゆっくりする時間ができたこともあり、子どもが園生活に慣れてきたころ、午前中だけのパート勤務を始めました。

自宅や保育園から近いところで働くことができる。

子どもがいても働ける時間がある。

採用してくれる会社がある。

正直、仕事の内容は物足りなかったものの、そんな安心感と育児優先の生活を通して、少しずつですが、また自分に自信を持てるようになってきました。

この頃、二人目を授かり、無事出産。

その次女が1歳になったころから、積極的に奈良市や生駒市で開催されるイベントやママサークルへ出かけるようにしました。

「子どもを産んだ女性はもう二度と一線で活躍できない」

第2子が生まれても、心のどこかに、いつもこの言葉への反骨がありました。今思えば、「意地でも自分のレールを敷いてやる」くらいの気持ちがあったのかもしれません。

二人の育児で家事がおろそかになるのを避けたくて、短時間で調理できる「時短クッキング」を考案。レシピを料理サイト『クックパッド』にアップすると口コミで広がり、企業や公民館の料理教室に講師として招かれるようになりました。(『クックパッド』には「ねいろママ」のハンドルネームで約80レシピを公開しています)

奈良市の「二名公民館」にて「子育て世代のスピード料理術講座」を開きました。30分で4品をつくる、お料理ライブ講座です。

また、企画書を雑誌の編集部に送ったことがきっかけとなり、全国誌からもレシピ提供の依頼をいただくこともできました。

フリーマガジン『ことまま』の企画で、
「秋のピクニックランチ」というテーマでつくったお弁当。

そうして知らない世界に飛び込み、行動範囲が増えるたびにママ友も増えて、SNSで悩みの共有もできるようになりました。そして、「悩んでいるのは私だけじゃないんだ」ということに気付き始めたのです。どんなママも何かに悩み、がむしゃらに育児・家事・仕事をこなしている。悩みを共有できる同じ境遇のママたちがたくさんいることの心強さに、ホッとしたことを今も覚えています。

豊かに暮らすための「あったらいいな」を高取町に。

ママさんたちと悩みを共有していくなかで、「母親に必要な知恵や知識を学べる勉強会」と「子どもと参加できる、息抜きのできる空間」が高取町にもあったらいいのにと思うようになりました。

例えば掃除の技術や整理整頓のテクニック、子どもの正しい叱り方、専門的な経済学を生活に活かすような知識を身につけることができれば、家事育児が楽になって、少し生きやすくなるんじゃないかと考えていました。

でも、そんなことが学べる場所やイベントは、高取町にはありませんでした。

そのときに、単純に思ったのです。教えてくれるプロを呼んできたらいい。理想とするイベントを開催すればいい。なければ、つくればいい、と。

不思議と、ゼロから立ち上げることに何の不安もありませんでした。

2016年に入ったころ、早速、企画書や募集のチラシを作成し、町の子育てサークルに飛び入り参加して、お母さんに向けてプレゼンしました。路地で話をしているママさんの輪に入ってチラシを配ったり、活発なママさんや町で活動されている方、学校の先生たちにも直接話を聞いてもらいました。

興味を持ってくれたママさんが集まり、初期メンバーが揃いました。でも、全員が経験のないことへのチャレンジでしたので、どんな講座をどこでするのか、お金はどうするのかなど、何度も会議を繰り返しました。やがて、「会議をしててもしょうがない。見切り発車でもいいからやってみよう」と割り切って、始めたのが前回もご紹介した「暮らしのレッスン」です。

プレスリリースを打ったことも功を奏しました。奈良新聞に記事が掲載。まさにここから「たかまち」の活動は始まり、今に至っています。

当時の奈良新聞の記事

私の場合ですが、子どもを産んだ瞬間、世界が180度変わってしまいました。積み重ねてきたものが音を立ててガラガラと崩れるように、悔しくて悲しい思いもしました。

しかし、子どもの成長に寄り添うことで、新しい自分を発見することができました。ゼロからのスタートだった母親という立場から見る世界にも、新鮮で明るい未来がある、そう希望を持てました。

希望につながる小さな問いやきっかけは、もしかするといつも、すぐそばにあるものなのかもしれません。

さて、次回は「たかまち」を支えてくれる、高取町に欠かせない魅力的な人たちをご紹介したいと思っています。最終話もぜひ、お楽しみに。

Writer|執筆者

福西 奈々子Fukunishi Nanako

高取町在住。2児の母。「たかまち*高取町ママたちのちから*」代表。企業の広報を担当し、プレスリリース・販売促進・情報発信に携わる。プレスリリースやウェブライティングの講師も務める。

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